鷗外森林太郎と脚気―臨時脚気病調査会を再考する講演要旨
鷗外森林太郎と脚気―臨時脚気病調査会を再考

国際日本文化研究センターの松田利彦教授は2026年7月16日、同センターと読売調査研究機構が共催するオンラインセミナーで「鷗外森林太郎と脚気―臨時脚気病調査会を(再)再考する」と題して講演した。松田教授は、脚気論争の渦中にあった鷗外と、鷗外が会長を務めた調査会に対し、否定的評価も多いが、再考すべき点があると指摘。セミナーの後半は、林正子・岐阜大学名誉教授との対談で鷗外の内面を深く考察した。

講演要旨

鷗外には文学者の顔と軍医の顔があった。森鷗外(本名・森林太郎)は津和野に生まれ、東京医学校(現在の東京大学医学部)を卒業後、軍医となってドイツ留学を果たすが、日露戦争後に小説家としても軍医としても大きな転機を迎える。『ヰタ・セクスアリス』などの作品を次々発表し、軍医のトップである陸軍省医務局長に就任。その医務局長としての最も重要な仕事が、政府の調査機関として作られた「臨時脚気病調査会」の会長を務めたことだった。

脚気は、明治の初め以来、日本では国民病と呼ばれるほど広まった。精米技術の進歩でビタミンB1を含有する糠を取り除いた白米食が普及したためである。今日ではビタミンB1欠乏症ということが明らかになっているが、当時はビタミンという概念もなく、1920年代に病因が解明されるまで、医学界では論争が続いていた。特に大きな問題となっていたのが、軍における兵食。海軍では高木兼寛が洋食に麦飯を取り入れた兵食改革を行って脚気をほぼ克服した話は有名だが、陸軍では戦時において白米食を続けたため大量の脚気患者を生み、日露戦争(1904~05年)では25万人を超える患者が出たと言われている。このような状況に対応するために1908年に作られたのが臨時脚気病調査会だった。

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当時、脚気の病因をめぐり大きく三つの説があった。一つは伝染病説で、主唱者の一人が陸軍の軍医制度を作り出した石黒忠悳。栄養が関係しているという栄養障害説は江戸時代から唱えられていた。食物に含まれている毒素が原因だとする中毒説もあった。国外では19世紀の終わりに大きなブレイクスルーが起こる。インドネシア(当時はオランダ領東インド)でオランダ人の学者が、白米を食べさせた鶏に脚気のような症状(鳥類白米病)が起きることに注目し、栄養欠如説を唱えた。白米には含まれていない未知の栄養素が存在し、それが欠けると脚気を引き起こすという説。これを受け、日本でも伝染病説ではなく栄養欠如説に移行する研究者も現れ、糠に含まれる(後にビタミンと命名される)成分を抽出しようという試みも行われた。1920年代初めに、人に対してビタミン欠乏食を与える実験の結果、ビタミン欠如が原因と確定し、調査会は1924年に解散する。しかし、少なくとも調査会発足当初は、東京帝国大学の系統の学者たちは栄養欠如説に概ね否定的で、鳥類白米病についても、人の脚気とは異なるものだという立場の人が多かった。

調査会発足時の委員は、陸軍や東京帝大、北里柴三郎の伝染病研究所などから集められ、北里や東京帝国大学の青山胤通らの大物医学者も顧問格で加わった。活動としては、国内外でのフィールドワーク、脚気患者の病理学的観察、動物実験、諸外国の研究紹介などを行っている。

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調査会の評価と再考

研究者の評価について、調査会が終わった当時の医学雑誌や戦後しばらくの時期までは、国民病とも言うべき脚気の本質を明らかにした、といった肯定的な内容だった。しかし、1980年代末以降は否定的評価が目立つ。例えば、調査会と森は伝染病説に固執し、米と脚気は無関係と考え続けた、新しい科学研究は調査会の外で始まった、調査会は国費の無駄遣いだった、といった指摘。これに対し、鷗外や調査会の業績を見直そうという研究もあるが、全体として否定的な評価を覆すには至っていないように思う。松田教授は今回、近年の否定的評価とは少し違った見方を示そうとした。

調査会の最初の仕事として、オランダ領東インドのバタヴィア(現在のジャカルタ)で脚気と同じ症状の病気が流行していたため、委員3人が現地に赴き、帰国後に報告書を出しているが、明確な結論が書いていないため、調査会がきちんと仕事をしなかった根拠に挙げられることがある。しかし、報告書はかなりの大作であり、よく読むと、脚気患者の血液から脚気菌は検出できず、患者の血液をオランウータンに注射したが陰性だった、など伝染病説を周到に否定している。一方で、現地で食されていた緑豆や玄米の予防治療効果については慎重な書き方ではあるが、保留付きの扱いにしている。その後の日本の脚気研究において伝染病説が否定され、栄養障害説へと向かっていく予兆を、この報告書に読み取ることも可能ではないか。

調査会全体の発表や報告の多さは、解散時の報告書によると、総会での委員による「総会発表」は170編、「報告書」は200編に上る。これらを分析すると、発表者や報告書作成者に東京帝大や陸軍軍医が多いのは事実だが、総会発表、報告書のいずれでも、栄養障害説が最も多く、2番目が中毒説で、明確に伝染病説を主張する議論は非常に少ない。調査会では伝染病説が支配的だったとも言われてきたが、脚気研究を行っていた現役の医学者たちは事実上、伝染病説を否定し、栄養障害説や毒素説に傾いていたと考えられる。調査会の議論は、全体として見ると、伝染病説に偏っていたとは言えない。

森のスタンスと調査会の限界

森は論文や講演を通して脚気伝染病説を唱え、日清戦争や日露戦争では軍医として兵食に白米を使い、最高責任者でなかったものの、戦時の脚気流行に一定の責任を負う立場だったことは間違いないが、日露戦争後も同じスタンスだったと即断するのは勇み足だ。例えば、森は調査会設立後、ドイツ熱帯医学会の会議に関するドイツの雑誌記事を『陸軍軍医学会雑誌』に転載し、調査会の委員に紹介する。記事は、脚気の処置は伝染病説と栄養説と両立させて考案する必要がある、という内容の演説。間接的ながら伝染病説以外の説も紹介している。このほかにも、調査会の会長として、森が外国の脚気調査を紹介したこと、伝染病説以外の説を唱える委員の任命をしていたこと、米食と脚気流行の歴史的研究を自ら委嘱していたことなどを検証。その結果、森会長が伝染病説以外の説を排除していたとは言えないと松田教授は考えている。臨時脚気病調査会は世界的な研究のブレイクスルーの時代にあって、脚気についての科学的な議論の場を提供しており、それを提供したのは森林太郎であった、というべきではないか。

しかし、問題点がないわけではない。森は脚気伝染病説に対する執着を捨てたようだが、なぜ「転向」したかという理由を語っていない。国家の官吏としての責任感、科学者的精神、左遷の経験などの理由は考えられるが、いずれにせよ、科学者としての転向を語らなかったことは問題であろう。調査会の姿勢についても、評価できないところがある。調査会における総会発表や報告書には「説不明」に分類されるものも多々あり、医学的には意味があっても、病因解明には必ずしも結びつかない研究も少なかった。また、脚気研究の社会的影響に対する関心も弱かったように思う。例えば、調査会が始まった頃から現れ始めていた糠製剤についての効果はあまり検証されていない。このため、調査会が脚気の原因解明に一役買ったとは言えるにしても、脚気が根絶されたわけではなく、調査会解散後も戦時期まで、日本では年間の患者死亡数は1万~2万人に達していた。

調査会の発信の仕方にも、今日的な目から見ると問題がある。調査会総会での発表には、記録が残されなかったものや、限られた関係者に配布された調査会報告書に掲載されただけのものが少なくない。研究成果を広く公表するには学会誌へ転載する方法もあったが、そのような方針に転じたのは、森の会長退任後だった。厳しい見方をすれば、森会長時代の調査会における科学的な議論は一面、閉ざされた医学内部の問題に集中し、研究成果の社会的発信の姿勢も弱かったと見ることができる。

以上の内容から、臨時脚気病調査会および科学者・研究者としての森の「達成点」と「限界点」が見てとれるように思う。松田教授は、本日の話がそうした問題を考えるきっかけになれば幸いだと締めくくった。