桶狭間の戦い再検証④:鷲津・丸根砦は「付城」ではなく、鳴海城との連絡遮断が目的
桶狭間の戦い再検証④:鷲津・丸根砦は付城ではなく連絡遮断目的

従来の「付城」説を疑うべきだった

これまで桶狭間の戦いにおいて、徳川家康が決戦に先立って行った大高城への兵糧入れと、鷲津砦・丸根砦の攻略について再検証してきた。鷲津砦・丸根砦を「信長公記」の記述に従い、鳴海城と大高城の陸上連絡路を遮断する目的の砦と捉えれば、兵糧入れの前に二つの砦を攻め落とす必然性はなく、大高城の兵糧入れと今川軍による両砦攻めは、今川義元の大高城・鳴海城救出作戦の各段階として評価し直せる。

そもそも織田信長が築いた2か所の小さな砦で、大高城の付城として十分機能するはずはなかった。鷲津砦・丸根砦を大高城の付城としてきた通説は、学術批判の意識をもって史料に接すれば、最初から疑うべきものだった。私も反省したい。さらに信長がそんな不完全な付城をつくったはずがないという意識が、大高城の南方に存在しなかった付城の創作にまで行き着いてしまった。

砦の位置と目的の整合性

鷲津砦・丸根砦を、鳴海城・大高城間の陸路を遮断して連携を阻止するのを主目的にした砦と捉えれば、砦の位置も数も、兵糧入れから砦の落城までの経緯も、今川軍の動きを整合的に理解できた。

Pickt横長バナー — Telegram用の共同買い物リストアプリ

前回記したように、鷲津砦・丸根砦は東西に主尾根が延びた丘陵から南側に派生した尾根に立地した。そのため大高城を監視できても、鳴海城は見通せなかった。この占地は大高城を目視して、鳴海城との連絡を阻止するのに合目的的で、不思議はない。

鷲津砦の位置をめぐる議論

なお鷲津砦については、史跡指定の尾根から一つ北側の尾根にあったと推理する人もいる。しかし北側の尾根に鷲津砦があったとすると、史跡になっている鷲津砦跡の尾根が邪魔して大高城が見えない。大高城を直視できない鷲津砦の立地はありえない。

さらに明治時代の地籍図や第二次世界大戦直後の航空写真にも、一部の人が砦を推測する北側の尾根には城跡遺構は認められない。別の場所に本当の善照寺砦があったと推理するのはロマンチックだが、学術的には否定される。史跡指定された鷲津砦の位置には、一辺50メートル程度の自然地形を残す削平段が認められるので、鷲津砦の実態は簡易な陣と考えるのが穏当である。

桶狭間決戦の経路と義元の選択

5月19日早朝に鷲津砦・丸根砦が陥落した後、信長は善照寺砦に入り、中島砦を経て(どちらの砦も名古屋市緑区)義元の本陣を突いて勝利した。

この桶狭間の決戦についても諸説ある。信長が通った道がわかったという人までいる。もちろん史料に記述はない。そもそも義元が本陣を据えた「おけはざま山」が確定できないのに、そこへ至る経路がわかったというのは奇妙である。

もし桶狭間の戦いで、義元が大高城ではなく、鳴海城から解放していたら、歴史はどう変わっただろうか。義元が最初に大高城の解放を選択したのは、大高城の麓に湊があり、大高湊で本格的な尾張進攻に向けた物資補給を受けるためだった。

伊勢湾の制海権と今川水軍

桶狭間の戦いの時点で伊勢湾の制海権は義元が握っていて、現在の愛知県弥富市内の鯏浦(うぐいうら)の人々は、一向宗の僧侶や地侍が率いた「武者舟千艘ばかり」(「信長公記」)で大高城の下や鳴海城沖の入海に進軍して、今川水軍と合流した。海からも今川軍が攻めた状況がわかると、信長は桶狭間の戦いでよく勝てたと、改めて思う。

(千田嘉博・名古屋市立大学教授、奈良大学特別教授。1963年愛知県豊田市生まれ、名古屋市育ち。奈良大学卒。名古屋市教育委員会学芸員、国立歴史民俗博物館助教授、奈良大学教授、奈良大学長などを経て2023年9月から現職)

Pickt記事後バナー — 家族イラスト付きの共同買い物リストアプリ