西郷隆盛の若き日の暴言と島流し…「幕末の聖人」の意外な素顔
西郷隆盛の若き日の暴言と島流し…意外な素顔

西郷隆盛は「敬天愛人」の言葉で知られる人格者だが、若き日は近所から恐れられる暴れ者で、上司への暴言が原因で島流しに遭っていた。偉人研究家の真山知幸氏は「後年の人格者としての西郷は、数々の失敗と苦難の末に生まれた姿だった」と指摘する。

「厄介者扱い」だった少年時代

文政10年(1828年)、薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛とマサの長男として生まれた西郷は、貧しい家計の中で傘の骨を作る内職に励んだ。身体が弱かったため、母は鰹節の煮汁を飲ませて養育したという。地域の男子教育システム「郷中教育」で学び、3歳年下の大久保利通と出会う。しかし当時の西郷は近所から「厄介な子ども」と恐れられていた。

「暴れ馬」で手がつけられないほどの激怒

若き西郷は「暴れ馬」と称されるほど気性が荒く、34歳の時に上司に対して「田舎者」と暴言を吐いた。この行動が藩主・島津久光の堪忍袋の緒を切らせ、西郷は島流しの刑に処される。最初の流刑は奄美大島で、約3年間の島生活を強いられた。ストレスフルな環境で「豚同様」の扱いを受け、精神的に追い詰められたという。

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恩人の死に絶望し、自決を図るも…

島流しの原因となった上司への暴言は、西郷の恩人である島津斉彬の死に起因するともされる。斉彬の死後、西郷は絶望のあまり自決を図ろうとしたが、周囲の制止で思いとどまった。その後、再び流刑となり、沖永良部島で過酷な獄中生活を送る。この時期、彼は『言志四録』という書物に光を見出し、精神的な支えとした。

高官たちが贅沢に走っても質素倹約を貫く

島流しから復帰後、西郷は一変した。高官たちが贅沢に走る中、彼は質素倹約を貫き、最期の戦い(西南戦争)でも肌身離さず『言志四録』を持ち続けた。真山氏は「西郷の人格は苦難の末に鍛えられた」と語る。

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