岡山県備前市伊部は、中世から近世にかけて使用された窯跡や、備前焼の窯元が軒を連ねる町並みが残る陶芸の里だ。JR赤穂線伊部駅の跨線橋から南方を眺めると、山裾が赤褐色に染まって見える。これは季節外れの紅葉ではなく、無数の陶片が広がる国指定史跡「伊部南大窯跡」の跡だ。岡山藩の保護と統制を受けて幕末まで使われた窯の跡で、打ち捨てられた破片の数々が、鮮明に残る長大な登り窯の痕跡とともに、作陶の盛時を生々しく刻む。
伊部の町並みと備前焼の歴史
六古窯の一つに数えられる備前焼の中心地である伊部の町並みは、陶芸の里ならではの風情をたたえる。旧山陽道沿いなどに窯元が軒を連ね、れんが造りの煙突が方々に見て取れる。江戸後期の医者・伊沢蘭軒は220年前、長崎を目指す途上で通過した当地を「陶器をうる家あり。此辺みな瓶器破余をもつて石にかふ。或は堤を護す」と描写した。壊れた器が塀などに使われている様子は今も見られ、はがれたブロック塀の下から陶片交じりの土塀がのぞく場所もある。
大甕を店頭に飾る老舗窯元もあれば、土管を土留めにしている家もあった。備前市美術館の林順一学芸課長(66)は「微細な穴によって水が腐りにくいとされる備前焼は室町時代、水甕として重宝された一方、明治の近代工業化における土管製造は長続きしなかった」と教えてくれた。時代の変遷を知ると、町の景色も地層が折り重なっているように見えてくる。
備前焼の特徴と伝統
備前焼は、土と炎の芸術。光沢や強度をもたらす釉薬を使わず、絵付けもしない。ワラを添えて焼いて襷のような模様を付ける「緋襷」など、焼き方や造形の工夫で個性を出す。天津神社の日幡行雄宮司(74)は「無釉、焼き締めの伝統は半農半陶の生活で守られてきた」と語る。日幡宮司は2代続く備前焼の伝統工芸士でもあり、神社のこま犬、参道、門の屋根瓦など至るところ備前焼づくしだ。古くからのものばかりでなく、先代が整えてきたものも多いという。「伊部のお宮は備前焼を使わなあかん、という思いがありましたから」
10キロ離れた旧閑谷学校へ足を延ばすと、壮麗さに目を奪われた。藩主池田光政が作らせた庶民のための学校で、1701年完成当時の姿をとどめ、講堂は国宝に指定されている。保存団体の若林一憲事務局長(67)は「未来に続く教育のため技術を尽くして頑丈に建てられた。備前焼の屋根瓦のお陰でもある」と誇らしげに語った。
新たな歴史を刻む陶芸の里
備前焼は新たな手法で脈々と受け継がれている。伊部駅前の備前市美術館は昨年7月にオープンしたばかりで、「まちに開かれた公園のような存在」を目指したという。3階ラウンジからは南大窯跡を見渡せる。ガラス張りのエントランスには、高さ7メートルの備前焼モニュメントがそびえる。手がけた人間国宝の伊勢崎淳さんは先月11日、90歳で世を去った。色みの異なる200枚以上の陶板を組み合わせた巨匠最後の大作は、天に向かって立ち上る炎のようにも見えた。
前身は備前焼専門の美術館だったが、間口を広げて多様な美術ファンを集め、備前焼の魅力にも触れてもらおうと新設された。近年の備前焼はアート市場での存在感が高まり、市も海外展開を後押しする。美術館の向かい側にギャラリーを構える森大雅さん(52)も海外に積極的に打って出る一人だ。春にはスペインのバルセロナに窯を作ったといい、本格的な欧州進出の足がかりとする。一方で、伊部のアトリエには海外からの留学生や旅人を受け入れている。
建築が専門のドイツ人留学生ルナ・シェーレさん(23)も「備前焼は良い影響を与えてくれる」と、土をこねていた。器用に形作っていたのはウサギ。「日本の民話では、ルナ(月)にウサギがいるんでしょ」とほほ笑んだ。少し前には、AI(人工知能)の普及で仕事を失ったというグラフィックデザイナーが訪れていたという。「手でできることを学びたいと言っていた。産業革命で奪われた手仕事が復興してくれるならうれしい」と森さんは語る。
陶片の再利用も形を変える。市美術館のショップに並ぶマグカップは、壊れた備前焼を粉砕して成形した「再生備前」だ。「釉薬を使わない備前焼はリサイクルにも向く」と林学芸課長。先人がはぐくんできた土地の恵みや技術は、令和の世にも新たな手法で受け継がれている。
アクセスと周辺情報
伊部駅へは岡山駅から赤穂線で約40分。旧閑谷学校へは、伊里駅(伊部駅から3駅、兵庫県方面)などから市営バスで10分程度。問い合わせは、備前市美術館(電)0869・64・1400、旧閑谷学校(電)0869・67・1436。



