コシヒカリ誕生70年、苦難乗り越え国民的銘柄米に
コシヒカリ誕生70年、苦難乗り越え国民的銘柄米に

日本を代表するブランド米「コシヒカリ」が今年、誕生から70年を迎えた。コメの品種は「10年一区切り」とされるなか、国内の作付面積は今なお圧倒的なトップに君臨し、日々の食卓を彩る国民的銘柄米にまで成長した。いもち病に弱く、稲穂が倒れやすいという欠点を乗り越え、新潟を日本一の「米どころ」に押し上げたコシヒカリの70年の軌跡をたどる。

「鳥またぎ米」と呼ばれた時代

昭和初期、新潟産のコメは「鳥ですらまたいで通る」と揶揄されるほど、評判が悪かった。品質よりも収量を重視していたことから、味が今ひとつだったためだ。そんななか、救世主となったのが、高収量で食味の良い品種「農林1号」だった。

1931年に新潟で誕生した農林1号は、県内だけでなく北陸や東北などでも生産された。ただ、稲の葉や穂が変色して枯れる「いもち病」に弱いという欠点があり、病気に強い「農林22号」と掛け合わせた品種の開発が始まった。

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福井地震を奇跡的に生き延びた苗

育種事業は、波乱の連続だった。戦時中には、出征による人手不足や資材不足で開発が一時中止に。事業の一部は48年に後の福井県農業試験場へ譲られたが、同年6月にマグニチュード7・1の福井地震が発生。試験田は液状化や地割れの被害に遭い、多くの苗は試験の継続が不可能となった。しかし、農林1号と農林22号を掛け合わせた苗は、早い時期に田植えされていたためしっかりと根付いており、奇跡的に無事だった。

後のコシヒカリとなる「越南17号」や、後のホウネンワセとなる「越南14号」の系統は、この被害を免れた20株から育成された。特に、後のホウネンワセの系統はいもち病に強く、収量も多かったという。

「運の強い品種」と評された理由

育種に携わった石墨慶一郎さん(故人)は、日本作物学会北陸支部・北陸育種談話会『コシヒカリ』(農山漁村文化協会)にて、当時をこう振り返っている。「(後の越南17号は)捨てようかと迷いながら、熟色と米質の良いことにひかれてさらにもう1年検討することにした」。そして、石墨さんはこうも続ける。「もしあの時、諸特性の一段と優れた越南14号の育成に有頂天になっていたら、今日のコシヒカリは存在しなかったであろう」

越南17号はその後、同時期に収穫される優良な品種が現れなかったことも幸いし、53年から全国各地で試作が始まった。しかし、地元の福井県をはじめとした多くの県では、いもち病に弱いことなどから評価が低く、奨励品種への採用は見送られた。

県内でも、試験中に稲が倒伏する課題に直面。しかし、最終的には「栽培法でカバーできる欠陥は致命的欠陥にあらず」として、県の奨励品種に採用することを決めた。

なぜ、県は欠点のある品種の採用を決めたのか。現在の農業総合研究所(長岡市)で約30年にわたり育種を担当した星豊一さん(75)は、「魚沼地方などの山間地で、他の品種より収量が確保できたためではないか」と推測する。

国の新品種候補審査会でも、これらの欠点は議論となり、登録には批判が続出したという。ただ、新潟に加え千葉県も奨励品種とする方針を固めたことが後押しし、1956年に「農林100号」の番号で登録されることが決まった。

当時、品種名はカタカナ5~6文字で命名されることが多かった。新潟と福井にルーツを持つ農林100号。かつて両県が含まれていた「越の国(北陸)」で光り輝く品種になってほしい――。そんな願いを込めて「コシヒカリ」と名付けられた。

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本来の目標であった「いもち病に強い品種」ではなかったコシヒカリ。しかしその後、ホウネンワセよりも長く生産され、全国を代表する品種にまで成長した。星さんは、そんなコシヒカリを愛情を込めて「運の強い品種だ」と評する。