天才軍師・竹中半兵衛の最後の仕事は誤算だらけ?宇喜多直家のしたたかな戦術に迫る
半兵衛の最後の仕事は誤算?宇喜多直家のしたたかな戦術

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第23話(6月14日放送)では、宇喜多直家(緋田康人)が毛利を裏切り、織田方に寝返る場面が描かれる。このシーンは、天才軍師・竹中半兵衛(菅田将暉)が最後の大仕事として、生野銀山の資金を活用して直家を動かしたという演出になっている。しかし、実際の歴史は異なる。本稿では、文献をもとに宇喜多直家の実像に迫る。

生野銀山の資金で直家を動かす「演出」

半兵衛による直家調略の見せ場は、実はほとんど存在しない。むしろ、彼の功績は限定的だった。『信長公記』によれば、1578年5月24日、半兵衛は現在の岡山市東区にある西大寺八幡山城を調略。この報告に喜んだ織田信長(小栗旬)は、秀吉(池松壮亮)に黄金100枚、半兵衛に銀子100両の褒美を与えている。しかし、この報告は極めて曖昧なものだった。実際には、宇喜多側から「味方したい」という申し出があっただけで、具体的な行動は伴っていなかった。秀吉と半兵衛は、別所氏に三木城で籠城される失態を犯した後、信長に「寝返るといってきています」と報告したに過ぎない。信長がこれに喜んで褒美を与えた背景には、直家を何とかしなければ毛利領への侵攻が進まないという焦りがあったと考えられる。

信長が激怒した“直家調略の吉報”

半兵衛の死後、1579年9月、三木城包囲を続ける秀吉は、直家調略の吉報を信長に伝えたが、逆に激怒されてしまう。『信長公記』には次のように記されている。

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「九月四日、羽柴筑前守秀吉、播州より安土へ罷り越さる。備前の宇喜多御赦免の筋目申し合せ候間、御朱印なされ候様に、と言上のところに、御諚をも伺ひ申されず、示し合はすの段、曲事の旨、仰せ出だされ、則ち、播州へ追ひ還され候なり」

現代語訳すると、秀吉が「備前の宇喜多(直家)を赦免する手はずが整ったので、御朱印状を発給してほしい」と申し出たところ、信長は「自分の命令も仰がず、勝手に宇喜多側と示し合わせたことは不届きである」と怒り、秀吉を播磨国へ追い返したという。ようやく宇喜多が信長に従うという吉報を持ってきたにもかかわらず、信長が激怒した理由は何か。まず、信長は格下の秀吉が大名クラスの赦免を勝手に決めたことを問題視した。直家は備前を中心に備中、美作にも勢力を広げる毛利方の超有力大名であり、その処遇を秀吉が独断で決めたことは、信長の怒りを買うに十分だった。

直家が信長にくだったのは“打算”か

宇喜多直家は、織田と毛利の間で巧みに立ち回り、自らの勢力を拡大したしたたかな戦国大名である。彼が信長に寝返った背景には、毛利の勢力が衰えつつあると見て、織田方に付く方が有利と判断した打算があったとされる。直家は、敵か味方かわからない不気味な存在として、周囲から警戒されていた。信用できないが、無下にもできない―そんな存在だった。

調略されたのは半兵衛のほうではないか

一部の歴史家は、半兵衛が直家に調略されたのではないかと指摘する。直家は、半兵衛の調略に乗るふりをして、織田からの条件を引き出し、毛利との関係も維持するなど、両陣営を巧みに利用した可能性がある。実際、直家の行動は一貫しており、彼は常に自らの利益を優先していた。

現代にもつながる“岡山人の本質”

直家のしたたかさは、現代の岡山県人の気質にも通じるものがあると言われる。岡山は、古くから交通の要衝であり、周辺勢力との調和を図りながら生き抜く知恵が培われてきた。直家の戦術は、そんな地域性を象徴しているのかもしれない。

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まとめ

NHK大河ドラマの演出とは異なり、実際の宇喜多直家調略は半兵衛の手柄ではなく、直家自身の計算高い行動が鍵を握っていた。信長を怒らせながらも、最終的に織田方に取り入り、生き残った直家のしたたかさは、戦国時代を生き抜くための知恵の表れだったと言える。