明治21年(1888年)10月、桜井女学校看護婦養成所の第一期生として卒業した大関和(おおぜき・ちか)は、鈴木雅、桜川里以とともに医科大学附属第一医院外科で働き始めた。和は外科看病婦取締(現在の看護師長)、雅と桜川は内科看病婦取締に任命され、多くの看病婦を監督指導する立場となった。病院上層部は、1年間の実地訓練で看護・医学の知識を身につけた彼女たちの能力を高く評価し、近代医療にトレインド・ナースが不可欠だと認識を改めた。
外科部長も認めた優秀さ
外科部長の佐藤三吉教授は「大関は僕の友人である」と公言し、和を医師と同格に扱った。和は頭の回転が速く適切な判断ができ、肝も据わっていた。不測の事態にもテキパキと動き、現場で頼りにされた。また、帝大病院には華族や高級官僚など上流階級の患者が多く、和は実習中に宮内省官僚夫人から指名され、10日間専属看護婦を務めた。上流階級は看護婦に家柄を求める傾向があり、家老の娘である和はその点でも評価されていた。
卒業後、和は寮を出て病院近くの駒込千駄木町(現・文京区千駄木)団子坂に家を借り、家族と暮らした。雅も静岡から子どもたちを呼び寄せ小石川に住み、二人の家は人力車で10銭、徒歩20~30分の距離だった。休日には家族ぐるみの付き合いをした。団子坂は幅二間半(約5メートル)の急坂で、和は毎日それを登って病院へ通った。
賃金格差への反発と建議書
看護婦の仕事は長時間勤務が常で、和は家より病院にいる時間が長かった。高等小学校に通う妹の六郎は身長が和を追い越しそうになり、心も女の子らしくなってきたが、和はその成長を見逃しがちで残念に思っていた。そんな中、和は看護婦の賃金が医師に比べて著しく低いことに不満を募らせ、外科部長宛てに賃金格差の是正を求める建議書を提出した。この行動が医師たちの反感を買い、職場に居づらくなった。わずか2年で帝大病院を辞職することとなった。
作家の青山誠氏は「看護婦としての優秀さは外科部長も認めるほどだったが、たった2年で帝大病院を辞めてしまった」と述べている。和の行動は、近代看護の先駆者としての信念と、女性労働者の権利向上への強い意志を示すものだった。



