高浜虚子の武蔵野探勝会、秋桜子が詠んだ「繭籠」の内面表現
高浜虚子の武蔵野探勝会、秋桜子の「繭籠」句

1930年(昭和5年)8月27日、高浜虚子は府中のケヤキ並木で第1回の武蔵野吟行を行った。これはホトトギスの新機軸として打ち出された「武蔵野探勝会」という企画によるものである。その初回に参加した水原秋桜子(1892~1981年)が府中で詠んだ句が「繭籠の寄せかけてある欅かな」である。

秋桜子が選んだ季語「繭籠」

秋桜子は夏の季語「繭籠(まゆごもり)」を季題に選んだ。虚子の筆にかかれば、武蔵野を象徴するケヤキの多様な相貌の一つという位置づけになるが、「繭籠」という古語の意味に立ち返り、写生に込めた秋桜子の内面の表現と捉えることもできる。大樹に寄る繭の中で一人こもる蚕の姿に自身を重ねているとみてとることが可能だ。

虚子への不満と探勝会の変質

秋桜子は医学生時代に高浜虚子の文芸に感銘を受けて門下生となった。その後は医師として生計を立てながらホトトギスの同人として俳句に没入したが、筆一本で文芸界を背負い、清濁併せのむ虚子のスタイルには不満もあった。第2回の武蔵野探勝会では記事を担当した秋桜子だが、自身の句は一句も掲載されなかった。のちに秋桜子が著した『高濱虚子』(1952年)の中で「私はあまり興味がなかったが、記事を担当する約束だったので出かけた」と書いている。

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秋桜子は初回の武蔵野探勝会について「結局はじめの計画とは全くちがったものとなり、ただ疲れただけの話であった」と述べている。「武蔵野らしい風景」を求めて「毎月四五人で武蔵野の此処彼処を歩き」という企画が秋桜子を含めた同人たちから持ち上がり、虚子も賛同し、秋桜子は「都合のつく日は必ず参加する」と表明していた。しかし、聞きつけてきた人たちが集まり多人数の吟行となり、虚子を神格化する空気が醸成された。結果として批評なき句会が催されるばかりであり、秋桜子の心はすっかり離れ、小さくなって繭に籠もりたくなるのであった。

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