煙は穏やかに笑い、「実際に見てきたらいい」と花瓶に薔薇を挿していく。宿泊客を客室で出迎えるのは薔薇の花がお決まりだった。そして、ホテルの庭園では薔薇が盛りを迎えていた。花の香に誘われた翅虫がぶんと唸るような音をたてて二人の間を抜けていく。
「お前もどうかと言っていた。美丈夫も戻ってきて、今なら俺たちがいなくてもホテルはまわる。なにもずっとというわけじゃないし、艦長にも会えるぞ」
戦後、艦長から自分の店を持ったという手紙がきた。髭面になった、相変わらず筋骨隆々とした艦長が、チェッカー模様の床にカラフルな椅子やテーブルが置かれた店内で腕まくりをしている写真も送られてきていた。
「ダイナーだっけ」と煙が言う。「ああ、あっちのカフェハウスみたいなもんらしいな。ちぎらないパンケーキが名物だとか。流行っていて、もう三店舗目をだしたらしい。砂糖っ子が行きたがっていたな」
「まだ怒鳴っているのかな」「年寄りになっても変わらないだろう、あれは」
煙と金ボタンが思い出話で笑っていると、二十代の客室係がワゴンを押してやってきた。煙は花瓶を手渡していく。一輪挿しもあれば、屋敷時代から使われていた豪華な装飾が入った花瓶もあった。それぞれの部屋番号を伝えるが、まだ二十代の客室係は一度では覚えられない様子だった。煙は「わたくしが行きます」とワゴンの持ち手を引き寄せた。「あなたは空いた客室の清掃と備品の補充が万全かどうか確認をしてきてください。後ほど、わたくしも確認します。最上階からお願いします」
若い客室係が去っていくと、「結局、お前がやってしまうんだからな」と金ボタンが肩をすくめた。「さっきの話、考えておいてくれよ」と煙の腕を軽く叩く。煙はゆっくりと首を横に振った。
「お前は俺がいなくなっても平気なのか」「前も言ったはずだ。ホテルには誰も留まらない。お客様も、働く人間も、ひとときを過ごして去っていく」「だったら、お前も……」「知っているだろう」と煙は遮った。「僕には身分証がない。もちろん旅券もね」
「そんなの、お前次第だ」
金ボタンは煙の目線から顔を背けて言い、足早に厨房へと入っていった。



