二つの廊下
森のホテルの最上階には、屋根裏部屋を改装した客室が並ぶ絨毯敷きの廊下と、物置部屋や従業員用の部屋が並ぶ木の廊下があった。赤い絨毯敷きの廊下は壁も天井も白い化粧しっくいで装飾され、水晶硝子が連なる小ぶりなシャンデリアからの淡い黄金の光に包まれていた。あちこちにある備品室から替えのシャンプーや石鹸や洗いたてのリネンの清潔な香りがほのかに流れてくる。木の廊下は天井から裸電球が下がっているだけで装飾と呼べるものは一つもなく、微かに埃っぽい匂いがした。
「緞帳」と「魔法の扉」
その二つの廊下はまるで舞台の表と裏のようで、境目にある扉のことを「緞帳」と呼ぶ従業員もいた。その扉を抜けた瞬間、ほとんどの従業員は表情や姿勢が変わった。客の前で浮かべていた追従笑いがかき消え、目のまわりの彫りが濃くなって老獪な顔つきになる者。肩から力が抜けると同時に口元がだらしなくゆるむ者。逆に、表情や動きに張りがでて容姿が洗練されたり、指先まで意識がいきわたることで別人のように優雅な気配を纏う者もいた。「魔法の扉」と小さい頃の砂糖煮の娘は言っていた。「みんな、あのドアを出たり入ったりすると、魔法がかかったり解けたりするのよ」と。
金ボタンの安堵
その扉を開けて、金ボタンは木の廊下を歩いていく。自分にかかったホテルの魔法も解けたのかと薄笑いを浮かべながら蝶ネクタイを緩める。早朝から働いていた砂糖煮の娘の部屋は静かで、他の住み込みの従業員の部屋からも物音ひとつしない。寝ているか、外出しているか、まだ働いているか。酒を飲みたかったり、誰かと喋りたかったりする者は地下の休憩室で過ごすので、皆、寝る時にしか自室に戻ってこない。そして、従業員たちの足音はひっそりしていた。夜更けや朝方に響くザックの靴音でそのことに気付いた。本人は気をつけているつもりでもその気遣いすら耳についた。やっといつもの従業員用廊下が戻ってきた、と金ボタンは胸がすくような気分になり、そう思う自分を意外に感じた。



