村上春樹の新境地、長編『夏帆 The Tale of KAHO』母娘の抑圧描く
村上春樹新作『夏帆 The Tale of KAHO』母娘の抑圧

村上春樹の新たな長編小説『夏帆 The Tale of KAHO』(新潮社、2860円)が刊行された。歌人・大森静佳が書評で、作家の新境地を読み解く。

夢幻能のような文体と世界観

大森は、村上春樹の文章のリズムを「能舞台を白足袋で進む『すり足』のようだ」と評する。重心が揺れず、飛び跳ねることもなく、同じ動きを繰り返すように見えて、読者を奇妙な時空へ導く。作家の小説世界の住人は、夢幻能のシテが死者の霊であるように、半分生きて半分死んでいる印象を与え、その青ざめた物語に惹きつけられる。村上作品は夢や無意識の深部に潜り、最後には「すり足」で現実へ戻ってくるという。

初の女性主人公と母娘の抑圧

本作は村上春樹の長編としては初めて女性を主人公に据えた作品。主人公は26歳の絵本作家・夏帆で、謎めいたありくいの指示で武蔵境に引っ越す。ブラジルの奥地と秘密の通路でつながった武蔵境での日常は、夢とも妄想ともつかない魔界へとねじれていく。クライマックスでは、夏帆がシロアリの女王に憑依された母親と対峙する。動物たちが躍動する寓話であり、少女が「顔探し」の旅に出る絵本が作中内物語として語られるなど、おなじみの要素もあるが、今回は母と娘の抑圧関係が主題の一つ。70代後半を迎えた村上春樹が新たに切り開いた境地だと大森は評価する。

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物語の有用性と善悪の複雑さ

作中では哲学者ベンヤミンの言葉「善き物語には、必ず何かしらの有用性が含まれている」が引用され、この小説が一つの物語論でもあると気づかされる。夏帆は絵本を書きながら、物語をわかりやすく進めるためには人物の善悪をそのつど判断する必要があると考える。しかし、人々に忌み嫌われる蜘蛛がゴキブリを食う「益虫」だったり、夏帆を脅かすある人物が意外な正体を明かしたりする。社会や世間は善悪の性急な判断を迫るが、物語はどうあるべきか。誰の内にもシロアリの女王やありくいの夫婦が棲んでいるかもしれない。彼らに翻弄されながらも、次第に愛おしく感じられる。物語ることへの強い念が、人間の善悪の複雑さを夢と現実の狭間で妖しく炙り出す。

書評家プロフィール

大森静佳は1989年生まれの歌人。角川短歌賞、現代歌人協会賞、塚本邦雄賞などを受賞。歌集に『てのひらを燃やす』『ヘクタール』などがある。

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