村上春樹の長編『夏帆』(新潮社・2860円)は、現代文学の潮流に背を向け、物語への傾斜を強めてきた作家の傾向が極まった一作だ。英題は「The Tale of KAHO」、すなわち「夏帆の物語」であり、長編初の女性主人公・夏帆が英雄の旅を正しくたどる。
物語の基本形をなぞる夏帆の旅
物語の基本形は、主人公が住み慣れた日常世界を離れ、さまざまな苦難の中で師や仲間と出会い、最終的に敵の親玉を倒して帰還する「英雄の旅」だ。本作はそのパターンをなぞりつつ、読ませるだけの技量が発揮されている。
冒頭に登場して失礼なことを言い放つ男の正体、何度も現れては夏帆に重大な決断を迫るアリクイの夫婦、実の母に取り憑いたシロアリの女王など、キャラクターの謎には事欠かない。さいたま市や武蔵境という実在の地名にも何かが隠されているようだ。
絵本作家としての夏帆の意味
何より重要なのは、夏帆が絵本作家だということだ。夏帆は、子どもたちのために「善き物語」を自ら紡ぎ出す存在であり、物語の主人公にして同時に作者でもある。
人は誰しも自分の物語の主人公でありつつ、それを動かす作者でもあるが、ともするとそれを忘れがちで、ただ流れに身を委ねてしまいかねない。夏帆は、絵本作家たることで、自らの物語をも主体的に生きることができた。これが本作の示唆する教訓であり、何度も引用されるベンヤミンの「善き物語には、必ず何かしらの有用性が含まれている」の実践である。
文学に必要な古くも力強い物語
村上春樹が今、文学に必要だと思っているのは、この古くも力強い「物語」なのだろう。



