三井化学は、SAPの基幹システム更新プロジェクト「IT・データ基盤強化プロジェクト」において、業務アドオンをわずか7本にまで削減した「クリーンコア」を実現した。100年を超える歴史を持つ総合化学メーカーである同社は、ICTやライフ・ヘルスケアなど4つの事業本部を柱に、広範な領域の事業をグローバルに展開している。2026年3月期の売上高は1兆6688億円、連結従業員数は約1万7000人を数える。社会課題を化学の力で解決することを掲げる同社は、多岐にわたる事業領域のデータを統合し、分析することによるソリューションビジネスへの事業変革を進めており、DXの推進と新たなデータ基盤の構築が急務だった。
「クリーンコア」を目指した背景
「SAP NOW AI Tour Tokyo」の事例セッションで、三井化学の藤元新事業本部(デジタルトランスフォーメーション推進本部 業務改革推進室長)が登壇し、同社が完了したクリーンコアによる基幹システム更新プロジェクトについて説明した。講演後の藤元氏への単独取材内容も含めて、同社の取り組みを詳報する。
「業務アドオンわずか7本」というクリーンコアを実現させた背景には、経営層の覚悟と、現場の不満や反発に正面から向き合った丁寧な対話があった。藤元氏は「ITの専門家からは『システムのシの字も知らないやつがSAP導入プロジェクトを推進したのか』と驚かれるような立ち位置だったが、それは本プロジェクトが、現場業務や事業運営、経営判断をつなぐ全社変革と位置付けられていたからだと考えている。もちろん実際は、システム部長からの強い支援を得て進めている」と振り返る。
2022年に発足した業務改革推進室の室長(当時)に選任された藤元氏は、2023年からスタートしたSAP基幹システムの更新を図る「IT・データ基盤強化プロジェクト」でプロジェクトマネージャーを務めた。藤元氏はそれまで、工場の生産技術や製造、本社の事業部長、経営企画、DX推進室といった業務経験は豊富だったが、ITの経験は乏しかった。
「10の失敗パターン」を事前に潰す
今回のシステム更新のきっかけは、同社の基幹システムだった「SAP ECC 6.0」が2025年度に保守切れを迎える(当時情報)ことによる、セキュリティやシステム停止のリスクへの対応だった。しかし、プロジェクトの真の目的は、単なるシステムの置き換えにとどまらないと藤元氏は言う。先に述べた通り、同社は2030年の長期経営計画において、ソリューション事業への発展を掲げており、その土台としてデジタル技術の活用を位置付けている。
「『グローバルスペシャルカンパニー』の実現に向け、データ収集・分析を高度化し、意思決定を迅速化してデータドリブン経営を推進することを社外に約束した。そのためには、基幹システムの更新だけでなく、周辺システム、BI基盤、マスターデータが一体として整備される必要があった」
将来に向けた頑丈な基盤構築のために同社が採ったアプローチは、クリーンコアERPの実現を前提とした、SAPの「グリーンフィールド(新規構築)」による移行と、BI基盤の整備だった。「新たなデータ基盤には、新技術の導入を容易にすると同時に、バージョンアップへの対応工数を削減することも狙った。また、周辺システムとの連携による業務効率化、法規制への対応の迅速化なども目指すためには、グリーンフィールドが最良の道だった」
具体的なシステム構成は、中核に「SAP S/4HANA」を配備し、「SAP BTP(Business Technology Platform)」や周辺システムを活用して必要機能を開発する手法を選択した。「ERPはできるだけ標準に近い形に保ち、これまで当社の強みとして培っていた機能は、周辺システム、またはBTPが担う構成を採用した」と藤元氏は話す。
ただし、ERPをカスタマイズしないことは、業務現場の負担を増す可能性も出てくる。「棚卸入力など、従来のERPではアドオンで自動化していた部分で、入力する工数が増えるデメリットもある。しかし、クリーンコアによる将来的な新技術への対応力というメリットを優先した」と藤元氏は語る。
同社のような大企業の場合、基幹システムであるERPの導入はさまざまな課題に直面する。対応を間違えれば、導入の失敗や遅延などのトラブルに見舞われがちだ。そこでプロジェクトチームは、SAPジャパンから提示された「失敗に陥る典型的な10の要因(悪い兆候)」を参考に、構想段階から対策を検討した。
プロジェクトにおける悪い兆候は以下の通りだ。
- 構想: 1.不十分な計画と実行 2.経営層の支援の欠如 3.非現実的な期待
- 計画: 4.変更への抵抗、コミュニケーション不足 5.不十分なトレーニングとサポート 6.不十分なリソース 7.不十分なデータ移行
- 管理: 8.不十分なプロジェクト管理 9.過剰なカスタマイズ 10.スコープクリープ、不十分な変更管理
これらの兆候が積み重なると、プロジェクトの遅延や中断、さらには、ERP導入自体が目的化することで、業務改善やビジネス価値の創出に結び付かない可能性があった。同社はこの知見を単なる警鐘ではなく、プロジェクトに内在する地雷を踏まないための道しるべとして捉え、すべての要因に対して事前に対策を講じることとした。藤元氏は「当社のデジタル化は『3周遅れ』などと自虐していたが、それを逆手にとり、先輩の事例を参考に、成功させようという思いが強かった」と語る。
特に、構想と要件定義には約2年という長い時間をかけた。現行業務を俯瞰的に捉え起こし、どこを標準化し、どこを変革すべきかを整理、議論する必要があったと藤元氏は言う。「長く事業をやってきた企業に共通のことだと思うが、業務内容が文書で残されていない場合も多く、マニュアルにおいても20年近く改訂されていないものも存在する状態だった。システム更新に当たり、やはり現状把握をしない限り、設定したゴールにはたどり着かないと思っていた。これは、SAPから失敗事例を聞く前から覚悟していた」
経営がシステム更新への覚悟を示し、全社への同調を取り付ける
同社が作成した、10個の失敗の兆候への対策リストを見ると、一見当たり前のことのように見えるものも多い。しかし、これを実際のプロジェクトで徹底するには、相応の準備が必要だった。何より対策のほとんどはITの問題ではなく、経営層はもちろん、全社を巻き込んだ取り組みが必要だったからだ。
さらに開発期間中は、追加要件の蔓延やシステムの不安定化を防ぐため、現行システムであるSAP ECC 6.0の仕様変更を凍結し、社内の組織改正も禁止する徹底ぶりだった。「変えないものを明確にし、不確実性を極力排除する管理体制を構築した」
また、全社プロジェクトの成功のためには、トップダウンによる意思表示と、それをミドル層、現場へと浸透させる流れを作ることが必要だ。そこで当時の社長が自ら、データドリブン経営の誓言と標準業務に合わせることの重要性を語る動画に出演し、全従業員に配信した。IT部長だけでなく、会社として全体で取り組む課題だということを示した。
同時に、「IT・データ基盤強化プロジェクト憲章」を策定。部長級以上の幹部層に対して、クリーンコアを実現するIT・データ基盤の構築を推進することを宣誓させた。この書面は、未達成時のペナルティや直接的な強制力を伴うものではなかったが、一定の効果はあったと藤元氏は認める。「血判状というわけではないが、やはりサインしたということが頭に残り、各部署の対応が変わった。やって良かったと思っている」
次に、サービスイン時における業務状況の可視化も実施した。業務がどう変わるのかを示すビフォーアフターの資料をイラストを使って作成した。例えば、データ収集報告業務をBI基盤に一元管理することで、本部の担当者が自らデータを取り出せるようになり、現場の二重対応が解消されるといったメリットを示した。これにより、すべてが一気に理想形になるといった過度な期待を抑え、期待値をコントロールできた。
ERPの更新では常に課題となるカスタマイズへの対応は、今回クリーンコアを実現するために特に難所だった。アドオンは極力排除し、標準に合わせなければいけない。そこで同社は、システムの個別仕様を決定する最高機関として、CDO(最高デジタル責任者)やCFO(最高財務責任者)も参加するステアリングコミッティとアドオン判定会議を設置した。この会議体で標準化を俯瞰的に追求した結果、最終的に業務系の個別アドオン開発を、わずか7本にまで削減することに成功した。藤元氏は「現場任せにしないで、経営部長のプロジェクト責任者レベルで規律を取ったことが、クリーンコアERP実現のカギだった」と指摘する。
クリーンコアを支える外部ツールの課題と期待
しかし、それまでアドオンが担っていたすべての基幹業務がS/4HANAの標準機能で賄えるわけではない。クリーンコアによって工数が増加することは、「日々工数削減に励む製造業の現場として容認できない」という反発の声も上がった。そこで推進チームでは、ERPシステム導入前に、実際の業務プロセスを模擬してシステムの機能やカスタマイズ内容を検証する手法であるCRP(Conference Room Pilot)を採り入れた。ユーザーが要件定義前に実際にシステム操作内容を確認することで、導入前に潜在的な問題を特定し、スムーズな本稼働を目指します。ERP更新による変更で、システムや人への負荷がどのように変わるかを部長ごとに検証して、必要な対策を採った。
「部長のキーパーソンと直接対話し、場合によってはBTPでの機能構築や外部ツールの新規導入も提案して、ERPが標準から外れないように要件を固めていった」
一方、クリーンコアを支える周辺ツールとして大規模に導入したSAP BTPについては、その評価はまだ定まっていないと藤元氏は言う。「現場のユーザーから見ると、BTPが動いていても、画面のイメージはS/4HANAのインタフェースと大きく違いがないので、あまり違和感はないと思う。ただデータを外部と連絡するため、どうしてもレスポンスは低下する。それを現場にはあらかじめ説明しているが、機能によってはストレスを与えていることは確かだ。逆に言えばパフォーマンスが上がれば、BTPだと意識されることはない。当社はかなり先行してBTPを入れたユーザーだと思っているので苦労もしたが、本当の評価はこれからといったところだ。もちろん将来、ERPのバージョンアップ時にはクリーンコアのメリットを享受できると期待している」
周到な準備と部長断の調整を繰り返して進められた、三井化学の基幹システム更新プロジェクトは、当初の予定通り、2026年4月に本番稼働を迎えた。「稼働初期は不具合が頻発し、お客さまや取引先に多大な迷惑をおかけしたことを、改めてお詫びしたい」と藤元氏は話す。各種のクリティカルなトラブルは、パートナーによる支援と協力のもと収束した。業務アドオンを7本に抑えたクリーンコアのERPを中心にしたシステムは、安定稼働に移行している状態だ。
今後はいよいよ、このデータ基盤を活用した「攻め」のデジタル活用に舵を切る。「数字を共通語とした企業風土に変革する」ことを目指し、事業部長別にブレークダウンした業務データを見ながら、経営効率に寄与しているかを分析、改善する活動を開始している。その先に、2030年の経営計画で掲げたROIC(投下資本利益率)9%以上の達成を目指す。
「一般的にROICをツリー状に分解する目的は、投下資本に対して効率の悪い事業の見直しにあると思うが、例えば当社のプラントから作られる製品は、一つの原材料からプロセスを経ることで順に作られる性質がある。そのため、途中の製品の効率が悪くてもそれだけを外すことはできない。ならば、その条件で何ができるのか、共通データを見ながら議論していくことが、データドリブン経営のカギになる」
さらに、海外を含むグループ会社に対してもBI基盤の導入を進めており、順次共通軸でのデータ分析と意思決定が可能になるという。藤元氏は「SAP環境の更新は単純なシステム導入ではない。経営、業務、基盤、そして現場を巻き込んだ企業変革そのものだった。このシステムが、2030年の経営計画達成の基盤として機能することが最終的なゴールだ」と最後に語った。



