4歳の時に長崎で被爆した沖縄県浦添市の大城智子さん(85)は、沖縄で数少ない「語り部」の一人だ。差別への恐れと、地上戦を経験していない「引け目」から長く体験を語ってこなかったが、2年前の日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のノーベル平和賞受賞をきっかけに講話を行うようになった。被爆81年となる9日は沖縄から核廃絶を願い、犠牲者に祈りをささげる。
「二度と被爆者を出してはいけない」
「原爆は本当に恐ろしい。二度と私たちのような被爆者を出してはいけない」。6月28日、浦添市内の美術館。大城さんは来場者33人に向け、4歳の時の体験を語りかけた。
大阪生まれ。1945年の春に長崎市に疎開し、100日目となった8月9日、爆心地から1.3キロで被爆した。当時の記憶はなく、母の手記などを基に、倒壊した家の隙間に挟まれて犠牲になった弟や、3か月後に亡くなった祖母のことを話した。
沖縄でのタブーと葛藤
戦後、両親の出身地である沖縄に移住した後、周囲の視線を気にしながら生きてきた。親戚から「結婚に関わるから、絶対に被爆者だと言ってはいけない」と告げられたことが常に心にあったことも明かした。
米国の統治下にあった沖縄では、本土に遅れること10年、67年に被爆者健康手帳の交付が始まった。夫とは被爆の影響を恐れ、「子どもは絶対に作らない」と約束してから付き合っていた。それでも娘を授かり、育てた。
戦争で県民の4人に1人が犠牲になった沖縄。「原爆への関心は低く、差別を恐れ、被爆者と明かすことはできなかった」と振り返る。沖縄戦体験者と違い、被爆者には援護制度があるため、後ろめたさも感じていたという。親は米軍関係の仕事をし、娘は基地関係者と結婚して孫もいる。「原爆は本土のこと」との思いがあった。
声を上げづらい環境
沖縄では大城さんのように体験を明かすことを避けた被爆者が少なくない。沖縄の被爆者を15年ほど研究する多摩大の桐谷多恵子准教授(国際平和論)によると、米軍基地で働く住民が多いため、長年、原爆の話はタブー視されていたという。「周囲に同じ体験をした人もおらず、声を上げづらい環境で生活せざるを得なかった」と指摘する。
ノーベル賞が転機に
大城さんの転機となったのは、2024年の被団協のノーベル平和賞受賞。次の世代に伝えなければならないと積極的に取り組むようになった。昨年以降に行った講話などは20回以上を数える。自身の体験を聞いた学生が涙を流し、「沖縄にも被爆者がいるんだ」と言ってくれたことが印象に残っているという。
沖縄県によると、県内の被爆者は3月末時点で56人。1991年に最多の388人となったが、年々減少傾向にある。「沖縄は米軍基地が多く、戦争が発生するのではないかとの危機感がある。だからこそ、体験を体力の続く限り伝えていきたい」。9日の長崎原爆の日を前に、大城さんは思いを強くしている。



