終戦後、外地より復員してきた父は、大阪で工員の職を得た。夜食に出るジャムパンが楽しみやった、と後年言っていた。
鉄工所や食堂が並ぶ下町
私は大阪湾に流れ込む川沿いの下町で育った。家の隣は鉄工所。日がな一日、誰かがマスクで顔を覆い火花を散らせて溶接していた。その隣は大衆食堂。「めし」と書かれたのれんがさがり、作業着姿の男たちが固まりになって出入りしていた。
出窓に金時計が飾ってある質屋もあった。その横のパチンコ屋は大音量で軍艦マーチを流し、店内では銀色の玉が流れ、あふれていた。
友達の家と引っ越し
駅近くの立ち飲み処は小学校の友達の家だった。遊びに行って帰る頃には階下の店はお客さんでいっぱいだった。一番仲良しの友達は、飯場に一家で住んでいた。大きな工事が終わると学期半ばで次の現場へと引っ越していった。
テレビとオリンピックの記憶
週に1度、ヒーローもののテレビを近所の家で見せてもらった。ご飯はアルミ鍋で炊き、サンマは七輪に火をおこして焼いた。
昭和39年東京オリンピックのポスター、アスリートたちが前を見つめ駆け抜ける一瞬を捉えた図柄を見たとき、子供心に「今だ」と思った。親たちはただ前しか見ていなかったから。
昭和といえば30年代のあの頃を思い出す。中西鈴子(72) 兵庫県南あわじ市



