米国が原爆投下を急いだ真の理由と道義的責任を81年前のタイムラインから考える
原爆投下の真の理由と道義的責任を81年前のタイムラインから考える

昭和20年(1945年)8月に広島と長崎に原爆が投下されてから81年。広島は6日、長崎は9日に原爆忌を迎える。広島市の平和記念公園では6日、原爆死没者慰霊式・平和祈念式が営まれ、慰霊碑に「原爆死没者名簿」が納められた。名簿には、この1年間に死亡が確認された3000人余りの被爆者の名前が加えられた。

森重昭さんの調査とオバマ氏の演説

令和8年(2026年)3月に88歳で亡くなった歴史研究家、森重昭さんの名前も新たに記帳されている。平成28年(2016年)5月に現職の米大統領として初めて広島を訪問したバラク・オバマ氏と抱擁した人として記憶している人もいるだろう。

被爆者でもある森さんは、「被爆者に日本人もアメリカ人もない」と、広島で被爆死した米兵捕虜について調査し、死没者名簿にその名前を記載する作業を続けてきた。原爆によって広島では12人の米兵捕虜が亡くなったが、米国民からの批判を恐れた米政府はこの事実を長年極秘扱いとしてきた。森さんの調査を受け、米国防総省は昭和58年(1983年)、被爆米兵死者の存在を初めて認めた。

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オバマ氏は広島での17分にわたる演説で、被爆米兵の死にも触れながら、戦争は国籍を問わずすべての人を不幸にすること、過去の過ちを繰り返してはならないことを強調し、「広島と長崎が核戦争の夜明けとしてではなく、私たち自身の道義的な目覚めの始まりとして知られなければならない」という言葉で演説を締めくくった。演説は原爆投下の是非や被爆者への謝罪には踏み込んでいないが、原爆投下は誤りであり、自身を含むすべての人に核廃絶に向けた「道義的責任」があることを認めている。

トランプ大統領の発言と三山氏の懸念

ところが、トランプ大統領は令和7年(2025年)6月、イランの核施設攻撃に関連して「広島、長崎の例を使いたくないが、本質的には同じだ。(原爆投下は)戦争を終わらせた」と、原爆投下を正当化したととれる発言をして、強い批判を浴びた。

森さんの活動をホワイトハウスに紹介し、10年前のオバマ氏の広島訪問実現に奔走した広島テレビ放送元社長の三山秀昭さんは、近著『ヒロシマ、ナガサキ 隠された真実』の中で、「間違いや不正確なことが八十年の歳月の経過の中で『史実』として後世に伝えられることに対して、広島に居を構えるジャーナリストの一人として懸念を抱く」と記している。

原爆開発の経緯とトルーマンの決断

米国大統領だったフランクリン・ルーズベルトは、ドイツから亡命してきたユダヤ人科学者からの書簡(アインシュタイン=シラードの手紙)によって、ナチス・ドイツが原爆の開発に乗り出す可能性があることを知った。英国とカナダの協力も得て、原子爆弾を開発・製造するマンハッタン計画を極秘裏に始めたのは太平洋戦争開戦後の昭和17年(1942年)8月のことだった。

ドイツに先んじるため、20億ドルという巨費を投じて、成功の可能性が高い複数の方式が並行して開発された。広島(ウラニウム235を使った砲身型)と長崎(プルトニウム239を使った爆縮型)で投下された原爆が異なるのは、複数の方式を同時並行で開発した結果ともいえる。

昭和20年(1945年)7月16日、米軍はニューメキシコ州アラモゴードで史上初の原爆実験を成功させる。この原爆はプルトニウム爆縮型で、ウラニウム砲身型は実験すら行わずに広島に投下している。ウラニウム砲身型は構造が単純で成功に自信があったから、といわれているが、急ぎすぎではないか。

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原爆投下を命じたのはルーズベルトの急死を受けて1945年4月に副大統領から大統領に就任したハリー・トルーマンだ。トルーマンは副大統領になる前、軍事費の無駄をチェックする米議会の特別委員会で委員長を務め、議会の承認を得ずに巨額の予算が使われている極秘プロジェクトがあることをつかんで、それを暴こうとしたことがある。

この時は、マンハッタン計画を知る陸軍幹部に説得されて調査をやめており、トルーマンは大統領就任まで、原爆開発計画を知らなかった。全容を知った時、すでに原爆は完成目前の段階にあった。

かつて軍事費の無駄遣いを批判する側だったトルーマンは、原爆を使わなければ20億ドルにものぼった開発費用が無駄になり、自分が議会の批判にさらされることになる、と懸念した。大統領の側近だったジェームズ・F・バーンズも、「もし計画が失敗すれば、情け容赦ない調査が行われる」と、原爆の使用を進言した。バーンズは原爆の驚異的な破壊力をソ連に見せつければ、東欧で影響力を強めるソ連の動きをけん制できると考えていた。

ルーズベルトの逡巡とスティムソンの助言

マンハッタン計画は原爆の使用を前提としていたが、ルーズベルトは無差別殺戮に使うことは考えていなかった。昭和19年(1944年)9月、ルーズベルトは英首相ウィンストン・チャーチルと会談し、原爆の標的をドイツから日本に変更する認識で一致(ハイドパーク合意)したが、その4日後に大統領科学技術顧問との会話の中で、「原爆を実戦で使用せず、日本側の視察団を原爆実験に立ち合わせ、威力を見せつけて恫喝する手はないか」と口にしている。

計画の推進役の一人だった陸軍長官のヘンリー・スティムソンも、民間人の大量殺戮には抵抗があった。議会の追及を心配するトルーマンに「(原爆を使わず)マンハッタン計画が失敗しても、(計画を知らない)議会はたいした調査はできない」と助言している。

日米開戦時の駐日大使で、国務次官だったジョセフ・グルーも日本への原爆投下に反対していた。無差別の大量殺戮は日本人の憎悪を買い、日本はソ連に接近しかねない。そうなれば終戦後の米国の日本占領政策にはマイナスとなる。

大統領に原爆投下を勧めてきたバーンズが45年7月に国務長官に就任すると、グルーはスティムソンに接近し、投下前に日本に降伏の機会を与えようと動く。大統領はどちらの意見を採用したか。米英ソの3巨頭が会し、日本の降伏条件を話し合ったドイツ・ポツダムでの会談で、それが明確になる。トルーマンが選んだのはバーンズだった。

ポツダム会談と「国体護持」の削除

原爆の使用を正当化するには、日本に降伏を呼びかけたが聞き入れなかったという手順を踏みたい。しかし、呼びかけに応じて日本が降伏すれば、原爆は投下できなくなる。原爆投下に失敗は許されないから、ポツダム宣言を出す前に核実験の成功を見届けたい――。トルーマンはこれらの条件をクリアし、原爆投下への道筋をつけるためにポツダム会談に臨んだとされる。

ポツダム会談の開会は、当初の45年7月1日から17日に延期されているが、開会の前日に米軍はアラモゴードで原爆実験に成功している。実験成功の報をポツダムで聞いたトルーマンは安堵の笑みを浮かべたという。

ポツダム宣言は第12条で、「(連合国の)諸目的が達成され、国民の自由な意思に従って平和的傾向を有する責任ある政府が樹立されれば、連合国の占領軍はただちに日本から撤退する」ことを約束している。実は、原案にはこの後に、スティムソンがグルーの助言を受けて書き加えた一文があった。

「そうした政府が、二度と侵略を企図することがないと世界が完全に納得するなら、これには現在の皇統のもとでの立憲君主制も含む」

知日派のグルーは、国体の護持、すなわち天皇制の存置を認めれば、日本は早期に降伏すると読んでいた。そうすれば原爆投下はせずにすむ。ところがこの一文は、会談の直前に削除されてしまう。バーンズが「原爆投下まで降伏条件の緩和は棚上げすべきだ」とトルーマンに説いたためとされる。

スティムソンはポツダム会談の代表団から外されていたが、米陸軍の輸送船で単身ポツダムに向かい、削除した一文を復活させるようトルーマンに求めている。しかし、トルーマンは聞く耳を持たず、「気に入らなければ荷物をまとめて帰ったらいい」と冷たく言い放ったという。

日本が降伏しない仕掛け

ポツダム宣言にはソ連首相のヨシフ・スターリンが署名していない。ソ連は宣言文の作成からも外されていたからだ。通説では、原爆実験に成功した米国はソ連の対日参戦はもはや不要と考え、ソ連の発言力を削ぐためだったとされるが、別の説もある。

米国は日本がソ連を通じた和平交渉に一縷の望みをつないでいたことを知っていた。日本に降伏を求めるポツダム宣言にソ連が署名していないのを知れば、日本はなお和平交渉に望みをつなぎ、宣言の受諾は遅れる。天皇制存置の確約がない上に、ソ連は署名しておらず、宣言には回答期限の記載もない。つまり、トルーマンはすぐに日本が降伏しない仕掛けを宣言文に入れ込んだ、というのだ。

マンハッタン計画に携わった科学者ら70人はポツダム会談開催初日、日本に軽率に原爆を落とさないよう求める請願書をトルーマンに提出している。<1>日本に明確な降伏条件を示し、降伏の機会を与えること<2>それでも日本が降伏を拒否した場合でも、原爆投下の「道義的責任」を真剣に検討してからでなければ投下してはならない――という内容だった。

「ソ連外し」が日本を降伏させないためだったというのは憶測としても、ポツダム宣言には「これが最後通牒だ」との記述も、回答期限もない。「国体護持」の削除から始まった会談が、最後まで原爆開発者の願いとは真逆に進んだことは間違いない。トルーマンがこの請願に目を通したかどうかはわからないが、特段秘密の事柄が書かれていないにもかかわらず、この請願書は戦後10年以上機密扱いとされている。

狙い通りに事を運んだトルーマンは、宣言が発表される前日、ポツダムから「8月3日以降の早い日」に2発の原爆を投下する最終命令を出している。思惑通りに日本政府はポツダム宣言を「黙殺」したが、宣言の内容にかかわらず、原爆投下は決まっていたことになる。

最後まで優先目標だった京都、新潟

原爆をどの都市に投下するかは、米政府とは別に米軍の目標検討委員会が検討した。この経緯にも、投下の目的が透けて見える。当初は候補とされた東京湾などは早々に除外される一方、京都が最後まで優先目標(AA)にランクされている。

人口100万人の大都市であること、かつての首都であり知的中心地である京都に原爆を投下すれば、日本の知識人が戦争終結を訴えるだろうというのが理由だったという。戦前に京都を訪れ、その美しさに魅了されたスティムソンが京都を除外するよう強く主張し、京都は最終候補から外れた。1000年以上朝廷があった古都に原爆を落とすと日本国民の反感を買い、占領政策に支障をきたすというのも除外の理由だったという。

新潟が最後に候補から外れたのは、もし雲などに覆われて投下できなかった時、代わりに投下できる適当な都市が近くにないというのが最大の理由だった。ともかく投下、が至上命題だったことが、ここからもよくわかる。

三山さんの前掲書によると、米軍は<1>これまで空襲にあっていない無傷の都市であること<2>平野部であること<3>人口密集地であること<4>効果の測定が容易な場所であること<5>直径3マイル(約4.8キロメートル)外にも市街地が広がっていること――の5条件をもとに候補地を選んでいる。

無傷であることが条件になっているのは、以前に空襲を受けた都市に投下しても、被害が原爆によるものか、以前の空襲によるものか確認できないから。原爆の効果測定に支障が出ないよう、米軍は5月と7月に投下候補とした都市への通常爆弾による空襲を中止する命令を出している。最後に候補になった長崎は、7月末と8月1日に空襲を受けているが、当初の予定地だった小倉への投下が視界不良で断念されたため、急きょ投下された。

平野部でしかも3マイル外にも市街地が広がっているのが理想というのは、事前に想定した原爆の威力が正しいかどうか測定するため。軍事拠点や軍需工場があることは条件になく、広島では原爆とともに観測機器を落下傘で投下し、爆風、熱線、地上の温度変化などのデータを収集している。

原爆は日本人の精神を痛めつけ、どれだけ大きな被害が出て何人の人を殺せるか、「実戦実験」として投下された。広島に投下された型の原爆で核実験を行っていないのは、実戦で効果を実験する方が大事だったからだろう。