福岡県議会の正副議長ポストをめぐる金銭授受疑惑で、藏内勇夫・県議会議長(72)に注目が集まっている。藏内氏は一介の県議でありながら県知事をしのぐ権力を持つと言われる。いかにして「福岡県政のドン」は生まれ、力を得ていったのか。ノンフィクションライターの勢野進さんがリポートする。(後編/全2回)
「日本で一番悪い男」と呼ばれる県議の正体
7月23日、首相官邸で高市早苗首相と面会を終えた藏内勇夫・全国都道府県議会議長会会長は、記者団の前で「日本で一番悪い男と言われている」と自嘲してみせた。福岡県議会を揺るがす金銭授受疑惑を前にしての言葉だ。県議の高額海外視察、県職員による政治資金パーティー券購入問題、正副議長ポストをめぐる金銭授受疑惑――その中心に、常に「県議会のドン」藏内氏の名前が浮かぶ。
県職員、党県連、県議会の人事、さらにはマスコミにまで影響力が及ぶとされる藏内氏は、なぜこれほどの“力”を持つようになったのか。その源泉は、県議になるはるか以前、1980年の秘書時代にまでさかのぼる。
九州で評価を高めたきっかけ
藏内氏が政治に足を踏み入れたのは1980年のこと。日本大学農獣医学部を卒業後、1年余り臨床獣医師として勤務するなかで、衆院議員を6期務め、のちに参院に転出した藏内修治氏の姪と結婚した。その姪とは日大時代の同級生で、学生時代からの付き合いだったという。この結婚を契機に藏内勇夫氏は、山口姓から藏内姓に名前を変え、藏内修治事務所で秘書として働いた。
当時は、鈴木善幸内閣・中曽根内閣の手で行政改革が強力に推し進められていた。藏内参院議員は衆院時代に労働、外務の各政務次官、衆院商工、内閣の各委員長を歴任したこともあり、そのキャリアを買われ、鹿児島出身の大物政治家で、当時自民党幹事長だった二階堂進氏とともに九州地区の行革推進の担当者に任ぜられた。
「生殺与奪の権」を握る窓口に
ここで若き藏内勇夫氏に、思いもかけない活躍の機会が与えられた。二階堂氏の秘書とともに藏内勇夫氏は藏内参院議員の名代を九州で務めた。のちに「中曽根行革」と呼ばれる改革は、民営化した国鉄、日本電信電話公社をはじめ、国家機関や国の外郭団体、第三セクター的な機関を対象とした。各団体は「総論賛成・各論反対」の立場から行革担当議員に陳情を繰り返した。その窓口を若き藏内勇夫氏が担ったのだ。いわば各団体の「生殺与奪の権」(存続か廃止かを左右する決定権)は、窓口の藏内勇夫氏次第となったのだ。
藏内氏は結論を押し付けることはしなかった。労働運動指導者とも膝を突き合わせて議論した。何を譲り、何を残すのか、これが核心だという藏内氏の主張に、労働組合運動指導者だけでなく社会党、民社党の幹部も納得した。こうして藏内氏の評価は地元九州で高まり、党派を超えた幅広い人脈が築かれていった。



