「自分とは何か」に真剣に向き合った末の人間らしい結論 サルトルの実存主義
自分とは何か サルトルの実存主義が導く人間らしい結論

「自分とは何か」という永遠の問い

誰しも一度は考えたことがある「自分とは何か」という疑問。西欧哲学の長い歴史の中で、人間は「考える存在」「神の被造物」「直立歩行する存在」など様々に定義されてきた。しかし、どんなに考えても、その本質を失ったら人間でなくなるような決定的な本質は見つからない。

固定された本質は存在しない

知能が低くても、考えが浅はかでも、人間には価値がある。教会に通わなくても、脚を失って直立歩行ができなくても、人間の価値は変わらない。つまり人間は、椅子や豚のように単一の本質を持たない。固定された本質を持たない自由な存在であり、自らの人生で本質を創り上げていく存在なのだ。これがサルトルのいう「実存」である。

抑圧する集団と規定された自己

問題は、規定されていない自由な存在である人間を、抑圧的に規定しようとする集団が存在することだ。国家、社会、家族、慣習、道徳、宗教、哲学、科学――これらが私たちを特定の本質として規定しようとする。私たちは「国民」「息子・娘」「被造物」「理性的存在」「会社員」「学生」として規定され、自らそれが自分の本質だと信じてきた。しかし、これらは本当の自分の本質ではないし、自分の本質を保証するものでもない。

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脱ぎ捨てた先に残るもの

自分にかぶせられた本質を一つずつ脱ぎ、すべての規定と抑圧から解放されたとき、残るのはたった三つの事実だけだ。それは「自分が」「いま」「ここに」いるということ。人間は規定されない、絶対的に自由な、実存する存在である。サルトルはこのことを「人間は自由に呪われている」と表現した。ここでいう「呪い」は否定的な意味というより、人間の宿命を強調する表現であろう。

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