朝ドラ「風、薫る」に描かれなかった大関和の悲劇:最愛の息子33歳で他界、娘も20歳で死去
朝ドラにない大関和の悲劇:息子33歳、娘20歳で死去

NHK連続テレビ小説「風、薫る」で見上愛が演じる一ノ瀬りんのモチーフとなった大関和(おおぜき・ちか)。彼女は「明治のナイチンゲール」と呼ばれ、日本の近代看護の礎を築いた先駆者である。しかし、その華々しい業績の陰で、和は深い家庭の悲劇を抱えていた。文筆家の平山亜佐子氏が、朝ドラでは描かれなかった大関和の家族の真実を明かす。

離縁で息子を手放すも、後に同居

大関和は1858年(安政5年)、下野国黒羽村(現・栃木県大田原市)に家老の娘として生まれた。19歳のとき、父の同僚だった元家老の渡辺福之進豊綱から結婚を申し込まれる。福之進は和より30歳近く年上で、女性問題があり、外に子供もいた。和は結婚を拒んだが、父の願いを断れず、女性関係の清算を条件に承諾。1877年(明治10年)に長男を出産した。

ところが、夫はその子に「六郎」と名付けた。聞けば、外に生ませた子どもを含めて六番目の男児だという。和は約束が違うと責めたが、夫は「離婚すればお前の恥になる」と言い放った。和は一時は我慢したものの、3年後に娘の心(しん)を身ごもると離婚を決意。出産の里帰りをしたまま戻らず、長男の六郎だけは渡辺家に残され、母子は離れ離れになった。

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東京の実家に戻った和は、牧師・植村正久の弟が開いた正美英学塾で英語を学び、キリスト教に触れる。特に女性の権利を認め、一夫一婦制を重んじる教えに共感し、以降熱心な信徒となった。

看護の道へ、そして息子との再会

植村正久は和の優秀さに目を留め、正規の看護師(トレインド・ナース)になるよう勧めた。当時、看護師は医師や患者の雑用係と見なされ地位が低く、「出戻りか然さなくばあばづれのしたたか者」と思われる職業だったため、和は難色を示した。しかし、ナイチンゲールの献身に心を動かされ、看護の道へ進む決意を固めた。

そのころ、母を慕っていた長男の六郎は念願かなって渡辺家を離れ、和や妹、和の母・哲との同居を始めた。ただし、育児の多くは祖母の哲が担った。1886年(明治19年)、和は桜井女学校附属看護婦養成所に入学。翌年には洗礼を受け、帝国大学医科大学附属第一医院(現東京大学医学部附属病院)で実習を積んだ。

社会運動家・木下尚江との恋と娘の死

和は看護師として活躍する一方、社会運動家の木下尚江と恋に落ちる。木下はキリスト教社会主義者で、婦人参政権や労働問題に情熱を注いでいた。しかし、この恋は実らなかった。さらに悲劇は続く。娘の心は20歳の若さで死去。和は深い悲しみに暮れ、このトラウマは生涯消えることはなかった。

平山氏によれば、和は娘の死を機に、ますます看護教育と看護婦の地位向上に力を注ぐようになったという。しかし、私生活では孤独が深まった。

長男の挫折と悲劇的な最期

長男の六郎は医師を志したが、志半ばで挫折。後に看護師の教え子と結婚し、孫にも恵まれた。しかし、六郎も33歳でこの世を去る。和は最愛の息子にも先立たれ、残されたのはただ一人、孫だけだった。

平山氏は「和は看護婦としての名声を築き上げたが、その陰で子どもたちは母の不在に苦しんだ。六郎は母を慕いながらも、十分な愛情を受けられないまま成長した」と指摘する。和の死後、孫は「祖母は仕事一筋で、家庭よりも看護を優先した。もっと一緒に過ごしたかった」と後悔の念を語ったという。

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看護婦の地位向上に捧げた生涯

和は帝大病院の婦長を経て、看護師養成所を設置。日本の看護教育の基礎を築き、多くの優秀な看護師を育てた。その功績は現在も高く評価されている。しかし、平山氏の調査により、和の私生活には計り知れない悲しみがあったことが浮き彫りになった。

「風、薫る」では、りんが明るく前向きに看護に励む姿が描かれているが、実在の大関和は、子を失う悲しみを抱えながらも、使命感に突き動かされて生きた女性だった。平山氏は「和の人生には、朝ドラでは描ききれない深い哀しみと強さがある」と語っている。