教科書では教えてくれない「本当の歴史」として、本能寺の変後に起きた山崎の合戦に関する新たな研究成果が注目を集めている。従来、羽柴秀吉が明智光秀を破ったとされてきたが、最新の研究では秀吉は戦いに間に合わず、代わりに光秀軍と戦い勝利したのは荒木村重の元重臣だったという。
織田信長を追い詰めた2つの謀反
荒木村重が織田信長に反旗をひるがえしたのは、天正6年(1578年)10月21日のこと。それより半年ほど前の3月29日には、別所長治が三木城に籠城して謀反を起こしていた。信長にとっては二重の謀反であり、『信長公記』にも戸惑いの様子が記されている。播磨平定を任されていた羽柴秀吉も、このダブルの謀反に苦しめられた。
両者は単独で行動したわけではなく、大坂本願寺や毛利氏、足利義昭らによる反信長包囲網に参加していた。特に村重は、信長が長期戦を強いられていた本願寺へ、毛利水軍を通じて兵糧や物資を運ぶ支援をしており、信長にとって痛手となった。
荒木村重の有岡城は堅固だったが…
村重の居城・有岡城(兵庫県伊丹市)は、容易には落とせない堅固な城だった。しかし、信長方は予想より簡単に攻略できた。その背景には、ある武将の裏切りがあったという。
謀反をけしかけた張本人なのに
ドラマでは、明智光秀が村重を説得に向かうが、村重は一度裏切った自分が信長に許されるとは思えず拒絶。次に黒田官兵衛が乗り込むが、有岡城に幽閉される。しかし、歴史の真相は異なる。
たった1週間で信長につくことを決断
村重の元重臣は、村重の謀反後、わずか1週間で信長側に寝返る決断をした。この裏切りが有岡城攻略の鍵となった。
山崎合戦で光秀を破った男
本能寺の変後、光秀は山崎で迎え撃つが、秀吉の軍は到着が遅れた。代わりに光秀軍と戦ったのが、荒木村重の元重臣だった。彼の活躍により光秀は敗れ、その後の豊臣政権の礎が築かれた。
子孫は明治維新まで安定して存続
この重臣の子孫は、その後も安定した地位を保ち、明治維新まで存続した。歴史の表舞台に立たなかったものの、その功績は大きい。
歴史評論家の香原斗志氏は、この新たな解釈が従来の歴史観を覆すものだと指摘している。



