秀長の特命「兵糧ルートを断て!」
豊臣秀吉(池松壮亮)とその弟・秀長(仲野太賀)の生涯で最も苦戦した戦いと言えば、播磨攻めの三木合戦である。三木城に籠る別所長治を下すまで2年もの長期戦となり、荒木村重の謀反や竹中半兵衛の死など、多くの犠牲を伴った。その長期化の原因は、城外からの兵糧補給ルートが存在したことにあった。補給路を断つことで、ようやく三木城を飢餓状態、いわゆる「三木の干し殺し」に追い込むことができた。
補給ルートは複数あったが、その一つが東に伸びる湯の山街道。そのとば口に位置するのが淡河城(兵庫県神戸市北区淡河町)である。1579年(天正7年)5月、秀長はこの城の攻略を命じられるが、城主・淡河定範に敗れ、生涯で唯一とも言われる敗戦を喫した。
城造りに最適の河岸段丘
淡河城は神戸市北西の農村地帯、旧淡河町に位置する。比高約30メートルの河岸段丘の突端に築かれ、盆地を見晴らす。麓から見上げると急峻で、川の浸食作用で削られた断崖の様相を呈し、天然の要害である。切岸は人工的に削られることが多いが、この城ではほとんど自然地形そのものに見える。
天然の水堀とわずかな遺構
城内には現在、わずかな遺構が残るのみだが、天然の水堀が城を守っていた。秀長の大軍を前に、なぜ淡河城は落ちなかったのか。一説には「牝馬の計」と呼ばれる奇策が用いられたと言われる。これは、騎馬隊を混乱させるために牝馬を放つというものだが、真偽は定かではない。
想定外に凝った西付城の遺構
淡河城の西には、技巧を凝らした西付城の遺構が残る。秀長はこの城の攻略にも苦戦したとされるが、その防御力の高さがうかがえる。天然の地形を生かした城造りと、城主の執念が、秀長の大軍を退けた要因と言えるだろう。



