モデルから放送作家へ。勝木友香が語る異色キャリアの原動力とパリ・ミラノ挑戦
モデルから放送作家へ。勝木友香が語る異色キャリアの原動力

『ホンマでっか!? TV』(フジテレビ)や『林修の今知りたいでしょ!』(テレビ朝日)、『夫が寝たあとに』(テレビ朝日)など、数多くの人気番組を手がけるモデルで放送作家の勝木友香さん。もともと売れっ子モデルだった彼女が、なぜ放送作家に転身したのか。また、美容家や料理研究家など新たなジャンルに挑戦し続ける原動力は何か。パリ・ミラノのランウェイを歩いた経験と今後の展望についても聞いた。

地元の呉服屋のショーでモデルにスカウト「夢物語のはじまりでした」

まずはモデルの道に進むことになったきっかけを教えてください。

子どもの頃は福岡県の郊外に住んでいました。地元の呉服屋さんが成人式に向けたショーを行うというので「出てみませんか?」と打診があり、友人と一緒に出ることになりました。たまたまそのショーを見に来ていたモデル事務所の人が後日連絡をくれました。それが最初のきっかけです。

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初めてのお仕事は、長崎県で行われる貸衣装屋さんのショーでした。オーディションに合格して現地に行ってみると、雑誌で見るような有名なモデルさんがたくさん出ていて驚きました。なかでも川原亜矢子さんの神々しさには衝撃を受けました。憧れを抱いたままこの業界に入り、憧れのモデルさんたちと同じステージに立つ。私にとっては夢物語のはじまりでした。昨日まではただの女子高生だったのに、自分の世界が急に広がった気持ちでした。

難しさ、厳しさを感じることもありましたか?

モデルの仕事で東京に出てくるところまではトントン拍子でした。でも当時、女性ファッション雑誌は『CanCam』、『JJ』、『ViVi』といったいわゆる赤文字系の全盛期。私も「ああいう雑誌のモデルさんになりたい」という思いが強く、18、19歳ごろに東京に出てきましたが、どちらかというとテレビ関係のお仕事をいただくことが多かったです。

やっぱり「できること」と「求められること」は違うし、自分の中でうまく折り合いをつけていかなくてはいけないと学びました。悩むこともありましたが、モデルの仕事にはちょこちょこ面白い案件が入ってくるんです。だからちょっと先、もうちょっと先の夢を見せてもらいながら日々を過ごしていました。

モデル時代に培われた経験は今に活きていますか?

そうですね。例えば旅雑誌をやっていた経験が今に活きています。全国各地の観光地を訪れたことがあるので、会議で「ある県を取り上げる」となったときに情報量を増やしていろいろな提案ができます。また、モデル時代には毎日違う現場で仕事をしていたので、新しい場所でも物怖じしない、初対面の人とも会話を弾ませることができるコミュニケーション能力が身につきました。モデルさんに求められる辛抱強さ、我慢強さも今に活きていると思います。

モデルから放送作家へ。異色の転身のきっかけは“テレビ局で見たアロハシャツ”

現在は放送作家として活躍されていますが、「モデルから転職しよう」と思ったきっかけは何でしょうか?

ありがたいことに、モデルのお仕事は継続してもらえていましたが、学生時代の私が憧れていた存在には結局なれませんでした。だからこの先、30代、40代になった自分を想像したときにも「冒険がないな」と思いました。思い描いていた天井はもっと高かったんじゃないかという気持ちがあり、転職を考えはじめました。

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なかでもなぜ“放送作家”を選ばれたのですか?

テレビの収録現場は色んな業務が入り乱れて大混乱ですが、そんな中にアロハシャツを着てブランドのハットを被ってふらっと入ってきて、タレントさんと喋ったと思ったら「じゃあね」と出ていく、いかにも楽しそうな職業の人間がいたんです。それが放送作家でした。そのお仕事の本質も分からず、ただ「楽しそうなテレビ業界のお仕事」というだけで、勘違いのまま放送作家を目指すことになりました。

それからはもう苦労の連続でした。リサーチャーの仕事から始まるんですが、初めてのお仕事が「年金のスペシャリストを探してきて下さい」というもの。先輩に教えてもらった大宅壮一文庫を訪れて調べ物をし、コピーしてきたものを紙に貼り付けて資料を作りました。周囲がパソコンで資料を作る中、まるで学級新聞のような私の資料を皆で笑い、「まあ努力賞だね」と慰められもしました。

これじゃダメだと分かり、すぐにパソコンを購入して、1週間以内に登戸から渋谷に引っ越しました。「これ大変な仕事に就いちゃったぞ」と思い、「とにかく呼ばれたらすぐに飛んでいける場所で暮らそう」という自己判断でした。

モデル時代はどちらかと言うと与えられたものに応える仕事が多かったように思います。クライアントさんの作りたい広告があり、青写真が出来た中に自分たちが入っていって演じる作業です。でも放送作家は提案する側に回ります。攻守交代です。ゼロイチを作る人たちなので、面白くもあり苦しくもあります。

でもモデル時代に培ったことが活かせる瞬間もたくさんあります。例えばモデル時代にできた人脈のおかげで色んな人にすぐ連絡が取れます。仕事をする上で大いに助かっている点です。

現在も美容や和菓子など、放送作家以外の分野でもご活躍されていますよね。新しいことに挑戦し続けられる原動力を教えてください。

きっと好奇心が旺盛なのでしょう。興味のあり・なしがはっきりしています。気になったらすぐに検索します。良さそうだったら訪れてみます。好きが高じて仕事に結びつくこともあります。新しい世界に飛び込むときは不安もありますが、それよりもワクワクが勝ってしまいます。

仕事を選ぶ上では「自分が好きになれるかどうか」という価値観を大事にしています。仕事ってその大部分は苦しいものですが、苦しいけど好き、苦しいけどやりたい、と思えるかどうかが大事だと思います。憧れを抱けるかどうか、そのために努力できる分野かどうかです。

47歳で歩いたパリ・ミラノのランウェイ。そこから得られた「壁を壊す力」

2025年にはファッションの最先端の街・パリとミラノでモデルとしてランウェイを歩かれました。再度モデルの門をたたいた訳ですが、何かきっかけがあったのでしょうか?

以前林修さんがMCをしている『林先生の初耳学』(現在は『日曜日の初耳学』)という番組で、『アンミカ先生が教えるパリコレ学』という企画がありました。それを見たとき「私もモデルの仕事をひと通りやってきたけれど、唯一の心残りがあるとすれば、海外のモデルチャレンジだったな」と思ってしまいました。あと20歳くらい若かったらな、なんてモヤモヤが頭の中に残っていました。

そんなときに出演させていただいたショーのお話を聞きました。通常であれば海外のランウェイは現地でキャスティングコールを受けて合格した人が歩くものですが、このときは日本のブランドが向こうでショーを出すにあたり、オーディションを国内でするという話で「これが最後のチャンスだ」と思いました。なんでも挑戦していたモデル時代の自分が唯一、はじめから諦めていたものを、この歳になって取り戻しにいくと言いますか。憧れというには遠すぎる、心の底から憧れ過ぎて憧れの果てにあったものに20年後にチャレンジできる巡り合わせでした。

現地ではどんなことに刺激を受けましたか?

とにかくモデルさんたちの積極性がすごかったです。ステージの立ち位置には我先に向かうし、体調の悪くなったモデルさんがいたら遠慮なく押しのけていきます。たとえオーディションに合格していても、もっと良いブランドのオーディションに合格したら躊躇なくそちらに出演します。デザイナーさんも日本とは違い、パッと見て良いモデルさんが見つかったら他のモデルさんには目もくれずに終了となることが多いです。そのあたりの感覚が日本とはまったく違っていて、とても良い経験になりました。

その経験は今後どんな形で活きそうですか?

ひとつの自信になりました。人生、何に挑戦するにしても壁はあるじゃないですか。年齢の制限もあります。でも私は40歳を超えても大きなチャレンジができたので、「この歳で海外のランウェイで歩けたんだ。もうやれないことはない」と思っています。

放送作家になろうと志したときには、男女の壁を感じました。特にバラエティの世界は男性の放送作家ばかりだったので、あのときは「ジェンダーの壁を突破したい」という思いを強くしました。

向こうがどう思うかは分かりません。でも少なくとも、自分で壁を作って「挑戦しない」という選択肢はもったいないです。だから、挑戦しようかどうか悩んでいる人には「1回、やってみたら?」「意外と突破できるものだよ」というメッセージを送りたいですね。

今後はどんなことに挑戦していきたいですか?

放送作家という職業をメインでやりながら、モデル、美容家、最近はMCのお仕事ももらっているので、場合によっては「何をしたいの?」と思われることもあるかもしれません。それが煩わしいなと思っています。だから肩書を取っ払いたいんですよね。名刺に「勝木友香」とだけ書ける人になりたい。私がやる仕事が私の仕事であり、何かの仕事を私がやっているんじゃないんだよ、というところまでいけたらベストかなと思います。