長らく日本のプロレス界を牽引してきたアントニオ猪木は、稀代のカリスマとしてさまざまなジャンルに大きな影響を与え、「24時間、常にアントニオ猪木を演じていた」と言われていますが、娘婿として彼の活動をサポートしてきたサイモン・ケリー猪木氏によれば、その最期の表情は意外なほど優し気なものだったといいます。
本稿では、晩年の猪木氏が見せた「素」の一面について、サイモン氏の共著『証言 アントニオ猪木 絶望と復活の闘魂人生』から一部を抜粋・編集する形でお届けします。
猪木夫人の登場で勃発したIGFの内紛
現役引退後の07年、自ら新団体「IGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)」を立ち上げ、マット界に多様な話題を振りまいたアントニオ猪木だったが、17年に猪木とIGFの"亀裂"が公となってしまう。
「発端は、13年に猪木さんが国会議員に戻るという話からだったんです。それでIGFのスタッフも、議員活動のほうに行く人と団体運営に残る人とで分かれたんです。最初は『どっちの側も一緒に頑張ろう。猪木さんを応援しよう』という状況だったんですけど、IGFの体制自体も変わってしまって、それで内紛状態になってしまった。
スポンサー関連をまとめていたスタッフがいなくなって、そうなるとスポンサーも離れちゃう。コストカットで外国人も使えないし、IGFとしての最後の日本での大会は大阪だったんですけど(16年5月29日、エディオンアリーナ大阪)、出るのはインディーの選手ばかりでした。チケット代はそれまでのビッグマッチと同じくらい高いのに、です。
それで今度はNEWっていうIGFの別ブランドを旗揚げしたんです(17年4月)。GENOMEっていうネーミングを使わなければ、猪木さんにも迷惑をかけないだろうと。NEWは、インディーの選手を使った、小さい規模の興行です。それから中国で東方英雄伝という団体をつくったのですが、結局それもうまくいかなかった。もうこの頃には、猪木さんと連絡が取れなくなってしまっていました」とサイモン氏は振り返る。
ブレーン、スタッフがいてこそ輝く「カリスマ」
猪木が国政に復帰すると、IGFのスタッフは議員活動を支えるグループと団体運営を継続するグループに分裂。内部の対立が表面化した。スポンサー担当のスタッフが去るとスポンサーも離れ、外国人選手の起用も困難になり、興行の質は低下。16年5月29日の大阪大会(エディオンアリーナ大阪)ではインディー選手が中心となり、チケット代は高額なままだった。その後、IGFの別ブランド「NEW」を旗揚げするが、小規模興行にとどまり、中国での団体運営も失敗。猪木との連絡も途絶えた。
ジェロム・レ・バンナの対戦相手に猪木が立候補
サイモン氏は、猪木の人間性を象徴するエピソードとして、格闘家ジェロム・レ・バンナの対戦相手に猪木が自ら立候補した話を紹介。猪木は自身の強さだけでなく、周囲への気配りや優しさも持っていたという。特に子供の話になると、猪木の表情は「おじいちゃん」そのものに変わり、闘魂のイメージからは想像できない柔和な顔を見せたと語る。
垣間見た「強さ」ばかりではない人間性
サイモン氏は「アントニオ猪木」というキャラクターではなく、一人の人間としての猪木に触れた時間を貴重だったと述懐。最晩年、病床にあった猪木は、家族や身近な人々に対して優しい笑顔を見せ、安らかな最期を迎えたという。その表情は、リング上のカリスマとは全く異なる、素の猪木の姿だったとサイモン氏は証言している。
「アントニオ猪木」じゃなくていい時間
サイモン・ケリー猪木氏は、元・新日本プロレス社長として猪木を支え、晩年まで身近で見守った。その著書『証言 アントニオ猪木 絶望と復活の闘魂人生』(宝島社)では、猪木の知られざる素顔や団体運営の内幕が明かされている。猪木が24時間演じ続けたカリスマの裏側にあった、人間味あふれるエピソードの数々は、ファンに新たな感動を与えるだろう。



