鳥取大学医学部教授の飯野守男氏は、著書『法医学教授が教えている死体の授業』(飛鳥新社)の中で、死因究明を通じて得られた知見が命を守るために役立つと説く。特に、刃物による襲撃時には、腹部よりも胸と首を守るべきであり、刺さった刃物は絶対に抜いてはいけないと強調する。この記事では、実際に起きた無免許鍼灸院での死亡事例を基に、その理由を詳しく解説する。
無免許鍼灸院の悲劇:50代女性が両側緊急性気胸で死亡
ある50代女性が鍼灸院で鍼治療を受けた直後、院内のトイレで倒れ、そのまま死亡する事件が発生した。女性には持病がなく健康だったため、死因不明として解剖が行われた。解剖の結果、女性は肺に穴が開いて起こる気胸を発症していたことが判明。警察の調査により、同院の施術者は無免許であり、鍼治療の専門知識が不十分だったことが明らかになった。
肺は呼吸のための臓器で、小さな袋状の肺胞が無数に集まったスポンジ状の構造をしている。この構造により酸素と二酸化炭素の交換がスムーズに行われるが、何らかの理由で肺を包む膜に穴が開くと、空気が漏れ出し、肺がしぼんで呼吸困難や息切れなどの症状が現れる。
女性は倒れる直前、足繁く通っていた鍼灸院でうつ伏せになり、背中に鍼を刺してもらっていた。治療で用いられる鍼は一般的に0.14~0.34mmと髪の毛ほどの細さで、皮膚の抵抗も少ないため痛みはほとんど感じられない。しかし、無免許の施術者は鍼を深く刺しすぎたため、女性の両方の肺に肉眼では見えないほどの小さな穴を複数開けてしまった。
その結果、左右の肺から漏れた空気が胸腔にたまり、たまった空気の圧力で心臓を圧迫する「両側緊急性気胸」を発症し、これが死因となった。この事件は裁判に発展し、業務上過失致死傷の罪に問われた施術者には、懲役3年、執行猶予5年、罰金50万円の有罪判決が言い渡された。
肉眼では見えない穴を証明する画期的な解剖方法
飯野教授は、肉眼では見えない肺の穴を証明するために、独自の解剖方法を考案した。それは、肺の表面に洗剤を塗り、気管から空気を送ってしぼんだ肺を膨らませる方法である。穴が開いている場合、肺の表面にシャボン玉がぷくっと泡立つような動きが見られる。この方法は自転車屋のパンク修理と同じ原理で、気胸の証拠として学会で発表されている。
飯野教授は「穴が見えなくても、空気が出ていることを証明すればいい」と述べ、この手法の有効性を強調している。
刃物で襲われたら守るべき2つの部位と、絶対に抜いてはいけない理由
飯野教授は、万が一刃物で襲われた場合、腹部よりも胸と首を守ることが重要だと指摘する。腹部は臓器が多いが、致命傷になりにくい部位がある一方、胸と首には心臓や大血管、気道など生命維持に直結する器官が集中しているため、ここを刺されると短時間で死に至る可能性が高い。
また、刺さった刃物は絶対に抜いてはいけない。刃物が刺さった状態では、それが止血の役割を果たしている場合がある。抜いてしまうと一気に出血が始まり、救命が困難になる。飯野教授は「ナイフを抜かなければ助かったのに」という事例を挙げ、現場での冷静な対応の重要性を説いている。
めった刺し事件の解剖で直面する法医学者の葛藤
飯野教授は、複数回刺される「めった刺し」事件の解剖が特に難しいと語る。一つ一つの傷を詳細に調べ、致命傷となった傷を特定する必要があるが、その過程で被害者の苦しみを想像し、感情的な葛藤を抱えることもあるという。それでも、正確な死因究明が遺族の理解や今後の事件防止につながると信じて、日々の業務に取り組んでいる。
法医学は単に死因を明らかにするだけでなく、社会の安全に貢献する学問である。飯野教授の教えは、日常生活での危機管理にも役立つ実践的な知識を提供している。



