埼玉県坂戸市の東武越生線一本松駅から北東へ約1キロの住宅街に、かつて浅羽城(別名「萱方城」)が存在した。城跡は完全に住宅地となり、現在は公園の片隅に浅羽城の説明案内板がひっそりと立つ。
調査により、この地に浅羽城があったことが確実となり、16世紀前半のかわらけや常滑の甕、溝などが検出されている。
浅羽氏の本拠の可能性
『新編武蔵風土記稿』には、浅羽下総守が城主だったと記されている。浅羽氏は武蔵七党の児玉党の庶流とされ、浅羽行成が開発領主として入間郡浅羽に入ったことに始まる。
浅羽氏は当初、高麗川の北側の北浅羽に館を構えたと伝わり、現在の万福寺が菩提寺で、その付近に館があったと考えられている。万福寺の境内には徳治2(1307)年の板碑があり、浅羽氏の祖・行成の供養のために造立されたことが刻まれている。このことからも、この一帯が浅羽氏の本拠であった可能性が指摘されている。
浅羽城の姿は、福井県小浜市の酒井家文庫や広島市の浅野文庫に残る絵図から想像できる。絵図によると、台地縁辺部に主郭を置き、その外側を郭が取り囲む構造で、複数の郭で構成されていたことがわかる。また、横矢を掛けるために土塁や郭のラインを意図的に折り曲げた「折歪」が多用され、南側には土塁の切れ目を利用した虎口の存在も確認でき、戦国時代の城の姿が描かれている。
小田原の役をもって廃城か
いつごろ高麗川の南側に浅羽城が築かれたかなどの詳細は不明だが、『関八州古戦録』には、天正12(1584)年に浅羽氏が小田原北条氏に属し、北条氏照が上野国金山城と館林城を攻めた際、浅羽氏が道案内をして氏照の下で武功を上げたと記されている。また、伝承では、天正18(1590)年の小田原の役をもって廃城になったとされている。
残念ながら、現在は往時の面影を見ることはできない。それでも主郭跡に建つ案内板が、浅羽城がかつてここに存在したことを今に伝えてくれる。
地名と周辺の遺物
「浅羽」の地名は古くから存在したようで、万葉集にも歌われているという。浅羽を流れる高麗川は水上交通の要衝だったと思われ、さらに越辺川との合流点が近いことからも、水運が発達した地域であったことがうかがえる。また、浅羽城の築かれた地の住所が、城郭のある地にしばしば見られる「鶴舞」であることからも、地名から城の存在を感じることができる。
浅羽城の北東、徒歩約12分の距離に「浅羽橋場の板石塔婆」がある。これは応長2(1312)年に造立された高さ231センチの板碑で、銘によると、阿部友吉、長田守行の両名が大旦那となって結衆30人を募って建てた念仏板碑である。この板碑もこの地域の重要な遺物なので、あわせて足を運んでみてほしい。



