旅行用鞄を開けると、中には郵便配達人の制服と帽子が入っていた。それは歪に傾く黒十字の旗に覆われた街で、美丈夫とJの救出に使った鞄と目くらまし用の制服だった。躊躇なくワンピースを脱いだ鳥の巣の妹の、意志の強そうな深い瞳と豊かな栗毛色の髪が蘇り、懐かしさで胸が苦しくなる。しかし、それ以外の部分はもうぼんやりした記憶になっていた。眉も、唇も、鼻も、美しく整っていたことは覚えているが、その形を詳細に思い描けない。あんなに見つめたのに。あんなにむごいことが起きたのに。
旅行用鞄の持ち手の革は乾いてひび割れていた。もう随分時間が経ったのだと、金ボタンは自分の罪悪感をなだめた。旅行用鞄は新調しよう、と物置部屋を後にした。
煙の部屋を訪ねて
金ボタンは従業員用階段を下りて地下へ行った。薄暗い廊下を奥へ進み、煙の部屋をノックする。返事はない。「煙、入るぞ」とドアを開けると、部屋は無人だった。
廊下を見ると、隣の遺失物の部屋から明かりが一筋もれていた。金ボタンの声や気配には気付いているはずだ。でも、煙は遺失物の部屋から出てこない。
金ボタンは床に伸びた橙色の線をしばらく見つめ、煙の部屋の書き物机の上に鍵束を置くと背を向けた。旅行用鞄がもう古びていたことや鳥の巣の妹を思い出したことを話しても、きっと煙は静かに微笑むだけだ。そして、針金のように「なにか、わたくしにできることはありますか」と言う。見たくない、聞きたくない。煙にはもうずっと魔法がかかったままだ。あるいは、呪いか。
病院への道
金ボタンは街で旅行用鞄を買いがてら、蝙蝠が入院している病院へ見舞いに行った。
病院は中心から外れた閑静な地域にあり、大きな公園の奥にあった。眩しい夏の日差しの中、虹を描く噴水を眺めながら公園の遊歩道をゆっくりと進んでいく。傾斜した芝生に軽装で寝転び肌を焼いている若者が何人もいた。ほんの小さな布で胸と腰を覆っただけのビキニ姿の若い女性もいて、金ボタンは口笛を吹きそうになる。木陰に布を敷きピクニックをしている家族もいた。



