老いた男は口をつぐみ、膝に手をおいて立ちあがる。腰から下げた鍵束が鈍く鳴った。「今、彼女は」と私が問うと、「死んだよ」とかたい声で答えた。「結婚して渡った国でテロに巻き込まれて。意味がわからなかった。俺は人生で、少なくない数の意味がわからない酷い出来事を経験してきたはずなのに、人は何度でも啞然とできるものなんだな」
煙の存在を疑う
しばし口を噤み、「ホテルにいた者はもう誰もいない」と言い、「俺以外は」とつけ足した。私はしばし絶句し、「あなたは」とまた問うていた。「あなたは本当に金ボタンなのですか」と。「どうしてそう思う」と老いた男は目をすがめて私を見た。
「あなたの話には、不可思議な点がいくつかあるからです。針金の末路は後に調べたのかもしれない。けれど、なぜ、あなたは煙にしか知り得ないことを語れたのか。『鏡の部屋』で、煙は将校と二人きりだったはずだ。煙が誘導して将校に自害させたところをあなたは見ていないし、それを煙はあなたに話していない。彼は、復讐をした、としか言っていないはずだ」
幻想だったかもしれない
老いた男は金色でも銀色でもない、色の抜けた口髭を震わせた。笑ったようだった。「なにが言いたい」「あなたは煙ではないのですか」と私が問うと、老いた男の目が一瞬、虚ろな穴のようになった。
「そう、かもしれないな。時折、思う。煙など存在しなかったのかもしれない、と。ホテルが俺に見せた幻想だったんじゃないかって。煙が生まれたことも、死んだことも、どこにも記されていない。あいつの存在を示すものは何も残っていないんだ。俺が死んだら、煙はいなかったことになってしまう。名前を奪われた無数のJや、針金のように」
写真の記憶
節くれだった手で、老いた男は顔を覆った。「砂糖煮の娘が持っていた写真は」と私はまた問うた。「燃えたよ。あの子は写真をバーのカウンターに飾っていたんだ」と答えたそばから、「いや」と首を振る。「煙は、いた。俺はあの写真をはっきり覚えている。煙の声を、瞳の色を、撫でつけられた髪の色を。彼は完璧なホテルマンだった」



