生成AIがもたらす混乱を、近代を乗り越える好機として捉える一冊がある。早稲田大学教授で情報学研究者のドミニク・チェン氏が、マーク・クーケルバーク氏とデイヴィッド・J・ガンケル氏による『対話型AIの哲学 「書くこと」に未来はあるか?』(青土社、2640円)を読んだ。
「書くこと」は元来AIだった
プラトンの対話編『パイドロス』で、ソクラテスは書くことを戒めた。文字に頼れば人は忘れっぽくなり、書かれた言葉は問いかけても同じ答えを繰り返すだけだという。本書の著者らは、この古い懸念に大胆な読みを重ねる。書くこととは元来、道具を要する人工的な技術であり、「書くこと」自体が一種のAIだったと主張する。
生成AIが揺さぶるのは、西洋近代の「OS」(考え方の基盤)だと著者らは述べる。話し言葉こそ思考に直結し、書かれたものは二次的な記号にすぎないという図式は、哲学者デリダがロゴス中心主義と呼んだものだ。「作者」も普遍的な概念ではなく、批評家のバルトによれば近代西洋では作者と作品の関係は父子になぞらえられてきた。剽窃を指す英語の語源が「子供の誘拐」であることも偶然ではないという。
意味は読む側で生まれる
では意味はどこで生まれるのか。著者らはバルトとともに答える。「文書の統一性は、その起源ではなく、宛て先にある」。意味は書き手の意図ではなく、読者が解釈する場で立ち上がる。生成AIが依拠する大規模言語モデルは言葉の意味を理解していない、との批判は正しい。だが出力を無意味と切り捨てるのは拙速だ。あらゆる文章がそうであるように、意味は読む側で生まれる。AIはそれを可視化しただけなのだ。
評者は以前から「読むことは書くことである」と考えてきたので、この転回に首肯できる。生成AIの使い道もそこにある。自分の書いた文章をAIに読ませ、返る応答を読み、それを足場にまた書く。出力の出来映えではなく、そこから自分が何を生成し返せるかが問われる。このループは自己を理解し直す装置になりうる。
未来は「読むこと」のうちに
本書は「書くこと」の未来は読むことのうちにあるのだと結ぶ。何をどう読むかを選び、キュレーションすること。それは一人の作業ではなく、読書会のように他者と議論しながら進む共同的な営みだ。生成AIがもたらした混乱を、近代を乗り越える好機として引き受ける。挑発的でありながら、同時に希望のイメージが生成される一冊だ。田畑暁生訳。



