フリージャズへのめり込みと高円寺時代
私はジャズに関しては今でも下戸ですが、シブヤ系に闘志を燃やしていた学生時代にそれを差し置いてフリージャズにのめり込み、高円寺界隈で即興演奏主体のバンドをやっていました。あの頃の自由な音楽への情熱は、今でも私の音楽の基盤となっています。
専業音楽家になり、新宿ピットインへ
専業音楽家になってからは忙しさもあって、その頃の記憶もおぼろになっていました。月日は流れ、打楽器奏者の芳垣安洋さんとご一緒する機会が多かった時期に、初めてフリージャズの聖地でもある新宿ピットインに出演しました。会場隣の練習場でのリハーサルのために楽器を降ろし、駐車場の情報を尋ねると、その場にいたガラガラ声の「老婆」が親切に教えてくださいました。
浅川マキさんとの出会い
その日、久しぶりに高円寺時代のように自由な時の河を渡りました。演奏を終え楽屋に向かうと、サングラスと黒装束の女性が話しかけてきました。その声に聞き覚えがありました。朝の親切な「老婆」、その人は浅川マキさんだったのです。「この格好してなかったから気がつかなかっただろ」とマキさんは笑いながら話してくださいました。「アンタ、渡ちゃんの息子だってね、良かったよ、ルー・リードみたいだったよ。そうさ、フォークなんてやめちまいな」と。
まだ私は真剣にフォーク・ソングに取り組む前でしたが、うれしいお言葉をしかと胸に刻みました。それから間もなくマキさんはこの世を去られてしまいました。その直後、再びピットインの舞台に立った私は、マキさんへの追悼の言葉とともにウディ・ガスリーの「ホーボーズ・ララバイ」を歌いました。
(マルチ弦楽器奏者・執筆家)



