太平洋戦争中に米潜水艦に撃沈され、1400人以上が犠牲になった学童疎開船「対馬丸」について、講談師の旭堂南照さん(67)(大阪市)は、生存者やその家族の体験をもとにした自作の講談を12年間、演じてきた。事件を直接知る人が少なくなる中、南照さんに証言した生存者は、講談を通して語り継がれることを願っている。
恩師の夫の体験を講談に
演目は「ミチコ先生とマーマレードと対馬丸」。南照さんの小学時代の恩師、高良ミチ子さんとの思い出を絡めながら、ミチ子さんの夫で、生存者の高良政勝さん(86)から聞いた話や資料などをもとに、南照さんが書き上げた。
政勝さんは4歳だった1944年8月21日、鹿児島へ疎開するため、両親やきょうだいら家族11人で那覇港から乗船。3日間漂流した後、救助された。政勝さんの肌は黒く焼けて皮膚がはがれ、背中は骨が見えていた。家族で助かったのは、姉と政勝さんだけだった。
沈没知らせる手紙が軸
講談は、政勝さんの兄で、鹿児島に住んでいて乗船していなかった政弘さんが、沈没を知らせるため、沖縄に残る祖父母に宛てた手紙を軸に展開。乗船した家族11人のうち9人を失った苦しみを乗り越えようとする姿を描いている。
きっかけは、2013年に南照さんが同窓会でミチ子さんと再会し、政勝さんが生存者と知ったことだった。政勝さんの勧めで、資料や犠牲者の写真を展示する対馬丸記念館(那覇市)を訪れ、展示された政弘さんの手紙に衝撃を受けた。
戦時下だった当時、対馬丸の沈没についてはかん口令が敷かれた。手紙は、沈没を知った政弘さんが、郵送ではなく、親しかった船乗りに直接託して沖縄に届けられた。手紙には、悲惨な状況が記されながらも「私は落胆しません。困難を乗り切って進みます」とつづられていた。
南照さんは「戦争で理不尽に家族を奪われたのに、自分自身や家族を奮い立たせて生きようとしている」と、強く心を打たれた。つらい体験を語る政勝さんにも背中を押され、「記憶を風化させないため、私も伝える側になりたい」と思った。
若い世代に伝える
講談は14年に完成。毎夏に大阪市内の学校などで演じてきた。今年8月7日には、大阪市立東生野中学で、「真っ暗で果てしない海に放り出された人は、恐怖で身を震わせながら必死でいかだにしがみついた」と臨場感たっぷりに語ると、生徒60人は聞き入った。
南照さんは「当事者ではない自分が語ってよいのかと悩むこともあるが、戦争に巻き込まれ、大勢の子どもたちの命が失われたことや、困難から立ち上がる人の強さを伝えていきたい」と話している。
政勝さんは取材に、沈没した時の様子について「気がつくと、一人いかだにつかまり海に浮いていた。高波で目と鼻に何度も塩水が入り、どれだけ時間がたったか考えられないほど、苦しかった」と語った。事件のことは誰にも話せなかった。大人になってからも「みんな悲しい思いをした。自分だけが特別ではない」との思いから、口を閉ざしていた。
02年頃、生存者や遺族の集まりに参加した際、対馬丸記念館を作る計画に加わり、政勝さんが設立団体の代表を引き受けた。「奪われた子どもたちの命をなかったことにしてはいけない」との思いが強くなり、体験を語るようになったという。
だからこそ、妻の教え子の南照さんから講談にしたいと打診があったときはうれしかった。「講談なら聞き手が引き込まれ、真剣に向き合ってくれる。生存者や遺族の思いも代弁してくれており、若い世代に届いてほしい」と話す。
対馬丸とは
1944年8月22日、約1800人を乗せて那覇港を出航した貨物船が米潜水艦の魚雷攻撃で沈没した。沖縄から九州に疎開する子どもとその家族らが乗船しており、少なくとも15歳以下の1040人を含む1484人が亡くなったとされる。



