夏休みの過ごし方に悩む親へ 言葉になる前の気持ちを大切にする体験
夏休みの過ごし方に悩む親へ 言葉になる前の気持ちを大切にする体験

「学童に行きたくない」という小学2年生の娘の言葉から、今年の夏休みが始まった。共働きの家庭では、子どもの長期休暇の過ごし方は頭の痛い問題だ。在宅勤務の日はまだしも、夫婦そろって外で仕事をする日に子どもを一人で置いておけば、動画サイトばかり見て過ごすことになりかねない。かといって、嫌がる場所へ毎日通わせるのも気が引ける。

他の選択肢を探す中で見つけたのが、英語で歌やダンスに取り組むミュージカルプログラムだった。数日間の期間限定で、長い夏休み全体の解決にはならない。最初から「この経験が子どもの成長につながるはず」と考えて選んだわけでもない。子どもが学童より楽しく過ごせて、その間は仕事ができる。それなら助かる、というのが正直なところだ。

「英語の習い事」とは違ったプログラム

参加したのは、米国に本部を置く非営利の表現教育団体「HEART Global」のミュージック・アウトリーチ・ツアーというプログラム。世界各地から集まった「キャスト」と呼ばれる若者たちと、子どもたちが歌やダンス、演技に取り組み、数日間で一つのショーをつくる。配布資料には、歌やダンスの技術を高めることよりも、勇気を出して挑戦すること、協力すること、自分が感じたことをそのまま表現することを大切にしていると書かれていた。

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実際の様子は、想像していた「英語の習い事」や「ミュージカル体験」とは少し違っていた。いろいろな国から来たキャストたちが、全身を使って歌い、踊る。ただ明るく、楽しく歌うだけではない。それぞれが経験してきたことや、心の中に抱えてきたものまで、声や表情、体の動きから伝わってくるようだった。言葉にする前の感情をそのまま歌や動きにしているように見え、圧倒された。

「私は、本当はどう感じているのだろう」

見学していた保護者の日本人女性が、キャストに質問した。「私は仕事で、いつもロジックや数字ばかりを考えています。そういうことを続けているうちに、自分が何者なのか、自分が何を感じているのか、自分の本当の気持ちさえ、わからなくなってしまいました。皆さんは、こうして全身で自分の気持ちをさらけ出すことが怖くないのでしょうか。私は怖くてできません」

この女性は深く悩んでいたのだろう。キャストたちの表現に触れて、強く何かを感じ取ったのだろうと共感した。仕事をしていると、筋道を立てることや、根拠を示すこと、成果を数字で説明することが求められる。家に帰れば、子どもの予定や食事や持ち物を考える。毎日、その日一日を回すためのことを次々と処理していると、自分の気持ちに向き合う時間は後回しになる。「今、何を感じていますか」と急に聞かれたら、私もすぐには答えられないかもしれない。

キャストの一人は、こう答えた。「怖いです。でも、怖くありません。ここにいる人たちを家族のように感じているから、安心した気持ちでできるのです」

気持ちをさらけ出せるのは、怖くないからではない。怖さはあるけれど、この人たちの前なら大丈夫だと思えるから、表現できる。私は少し意外に感じた。全身で歌い、踊り、自分の過去や感情まで表現できる人たちは、人前に出ることが得意で、怖がらない人だと思っていたからだ。でも、そうではなかった。その人自身の強さだけではなく、周りにいる人たちとの間に築かれたものが、その表現を支えていた。

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子どもに何がよいのか、今もわからない

こういうプログラムに参加することが、子どもにとって最善なのかと聞かれたら、やはりわからない。学校教育についても、いろいろな専門家がいろいろなことを言う。AIが当たり前になる時代、人口が減る時代、これまでの「当たり前」が変わる過渡期にあって、簡単に先を見据えて「これだ!」という正解が選べるはずもない。自然の中で育てた方がよい、たくさんの人に出会った方がよい、自由に過ごさせた方がよい、ある程度の規律も必要だ――どれも一理あるように聞こえる。

子どもの教育のために地方や海外へ移住する家庭もあるが、仕事や家族の生活を考えれば、誰にでも選べることではない。結局、多くの親は、そのときに使える時間やお金、生活の条件の中で、「これでよいのかな」と思いながら、悩み選んでいる。今回もそうだった。「学童に行きたくない」と言われ、たまたま見つけた数日間のプログラムに申し込んだ。それだけだ。

けれど、子どもの夏休みをどうするか考えて選んだ場所で、私は思いがけず、自分のことを考えることになった。仕事や子育てをしていると、毎日いろいろな判断をする。何を優先するか、どう説明するか、誰に何を頼むか、子どもに何と伝えるか。けれど、判断を続けている自分が、本当は何を感じているのかは、意外と置き去りになる。悲しいのか、腹が立っているのか、寂しいのか、ただ疲れているだけなのか。自分でも判断の根拠がよくわからないまま、一日が終わることもある。

それらの気持ちを、必ずしもきれいな言葉にする必要はないのかもしれない。歌ったり踊ったりしなくても、うまく説明できなくても、「なんとなく苦しい」「自分でもよくわからない」と、そのまま気持ちを出せる相手がいることが、大切なのかもしれない。今回の経験で、子どもが何を受け取ったのかはまだわからない。ただ、全身で表現する人たちと、働く女性の率直な問いを目の前にして、自分を出すことは、一人の意思や勇気だけでするものではないのだと思った。「怖さがあっても、自分を出してもいいかもな」と思える人がいること。それがないと、きっと人は納得感のある選択を続けられない。夏休みの予定表には書かれていなかったけれど、私にとっては、かけがえのない思い出として記憶に刻まれた。