凡庸な二代目ではなかった織田信忠、わずか10日で信貴山城を攻略した総大将の手腕
凡庸な二代目ではなかった織田信忠の手腕

織田信長の嫡男・織田信忠は、戦国史に詳しい人なら名前を聞いたことがあるが、その実績や人物像を知る人は少ない。本能寺の変で信長と共に倒れた信忠は、かつては徳川家康の長男・信康と比較され、能力が劣ると評価されることもあった。しかし近年の研究では、信忠は信康が自害した天正7年(1579年)までに、信康とは比較にならないほどの実績を残していたことが明らかになっている。

合戦で総大将として実績を残す

天正5年(1577年)8月、松永久秀が信長に謀反し、難攻不落の信貴山城に籠城した。当時、西国では毛利氏が将軍足利義昭を奉じて上洛準備を進め、北国では上杉謙信が北陸を南下する勢いを見せ、東国では武田勝頼が巻き返しを図り、南方では大坂本願寺が抵抗を続ける中での謀反だった。長引けば「織田政権」の崩壊につながる可能性もあったが、信忠が総大将となって織田軍を率い、約10日で信貴山城を攻略した。

この武功により、信忠は従三位左近衛中将に叙任された。信貴山城攻めは、信長の天下統一過程の攻略戦の一つとしてあまり評価されていないが、羽柴(豊臣)秀吉の武功と比べても遜色のないものだった。

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本能寺の変に巻き込まれなければ

信忠は、当時最大規模の軍団を指揮するなど稀有な経験を積んでいた。もし生き長らえていたなら、どれほどの成長を遂げたのか、大成した姿を想像するのが楽しみな武将の一人だと、戦国史研究家の和田裕弘氏は述べている。

本稿は、和田裕弘著『織田信忠――天下人の嫡男』(中公新書)の一部を再編集したものである。

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