黒田官兵衛とは、いったいどのような人物だったのか。歴史評論家の香原斗志氏は「非常に情勢を読み切った武将だった。だからこそ、秀吉恩顧の武将でありながら、関ヶ原合戦後には17万石から52万石への大幅な加増を得た」と指摘する。
なぜ「秀吉の右腕」は関ヶ原で家康に与したのか
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第24回(6月21日放送)のサブタイトルは「軍師官兵衛!」である。実際、黒田孝高、通称「官兵衛」といえば、羽柴秀吉の天下統一を支えた無二の「軍師」として知られている。
しかし、近年では官兵衛が本当に「軍師」、すなわち秀吉の近くで作戦や計略を立案する参謀だったのかについて、疑問を呈する声が高まっている。戦国時代には「軍師」という概念自体が存在しなかったのだ。では、なぜ「軍師官兵衛」と呼ばれるようになったのか。それは、貝原益軒がまとめた『黒田家譜』をもとに、明治以降に書かれた伝記や小説を通じてイメージが形成されたと考えられる。『黒田家譜』は官兵衛の死後数十年経ってから編纂され、しかも黒田家の正史であるため、内容がかなり「盛られている」という。
とはいえ、秀吉の天下統一に対する官兵衛の貢献が小さかったわけではない。「軍師」ではなかったかもしれないが、秀吉の絶大な信頼を得て、右腕として軍事から諸大名との交渉まで多方面で支え続けた。その貢献度は極めて高かったことは間違いない。
ところが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、官兵衛が与したのは徳川家康が総大将を務める東軍だった。秀吉の右腕がなぜ東軍についたのか。その理由を探ると、戦国時代がいかに一筋縄ではいかない時代であったかがよくわかる。
秀吉との関係にヒビが入った出来事
秀吉は官兵衛を「秀長と同じくらい信頼している」と語ったという。しかし、その関係に亀裂が入る出来事があった。秀吉の晩年、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が始まると、官兵衛は出兵に反対したとされる。実際、官兵衛は朝鮮半島に渡ったが、戦況の悪化や秀吉の独断専行に不満を募らせた。
さらに、秀吉の死後、政権を担った五大老の一人・徳川家康と、石田三成ら奉行衆との対立が深まる中、官兵衛は家康に接近。官兵衛は、家康の実力を見抜き、天下の行く末を見極めていたのである。
家康とも毛利とも関係を維持する
官兵衛は、家康だけでなく、毛利輝元とも関係を維持していた。関ヶ原の戦いの前、官兵衛は九州に領地を持ちながらも、中央の政治情勢を常に注視。東軍と西軍の両方とパイプを持ち、最終的に勝ち馬に乗る戦略をとった。
その結果、関ヶ原後の論功行賞で、官兵衛は息子の黒田長政とともに、筑前国(現在の福岡県)52万石の大封を得た。これは、もとの17万石から3倍以上の加増である。
やはり「軍師」と言われるだけはある
官兵衛の戦略家としての手腕は、関ヶ原の戦い前夜に遺憾なく発揮された。彼は、九州の諸大名を東軍に引き入れる工作を展開。また、自身の居城である中津城を拠点に、西軍に与した大名を牽制した。
歴史評論家の香原斗志氏は「官兵衛は、軍師というよりも、戦略家・外交家として優れていた。だからこそ、激動の時代を生き抜き、子孫に大きな領地を残せた」と評する。
黒田官兵衛の真の姿は、単なる軍師ではなく、冷徹な情勢判断と巧みな外交手腕を持つ戦国武将だったのである。



