命を削るように今は亡き、文楽太夫の人間国宝だった七代目竹本住太夫に、弟子につける稽古の様子を取材させてもらったことがあった。あのときの光景は今も忘れられない。それほど厳しいものであった。
「なんべん言うたら分かるんや!」-。怒りで体も声も震え、飲もうと口に持っていった湯のみを、「はぁー」と首を振りながら戻す。何度も義太夫節の同じ箇所を繰り返す弟子。稽古場の隅で正座しながら見ていた私は身じろぎもできず、ただただ、しびれる足を我慢していた。
2時間以上に及ぶ稽古が終わると、住太夫は精も根も尽き果てた表情で深い息を吐きだした。当時、住太夫は80歳に届こうとしていた。文楽太夫の最高峰であり、老境にもあった。それでも、弟子が語る義太夫節の一言一句に鋭い視線を向け全身全霊で注意を与える姿は、失礼ながら高齢者とは思えぬ迫力であった。自分の命を削るような稽古を目の当たりにして、芸を伝えることのすごみに畏れを感じたものである。
文楽三味線・竹澤宗助の教え
そんなことを思い出したのは、先日、文楽三味線の竹澤宗助にインタビュー取材したからであった。宗助は近年、本公演では一曲のクライマックスを語る「切場語り」のベテラン、竹本錣太夫と組んで、毎公演のように「切場」を勤めることが多い実力派。令和元年からは、かつての師匠で平成30年に亡くなった人間国宝、七代目鶴澤寛治の孫で同じ文楽三味線の鶴澤寛太郎を預かって指導を行っている。
宗助はしみじみと、こんな話をしてくれた。「私が寛治師匠に入門したとき、師匠はそれこそ、ゼロから丁寧に丁寧に、教えてくださいました。ご自分の稽古もあるのに、さぞ面倒だったと思うのですが、それでも私の稽古に時間をかけてくださった」と。そして、「今度は私が寛太郎に教える番です。それが師へのご恩に報いることだと思っています」。
伝統芸能における芸の継承は、師から弟子へ、先輩から後輩へ、体と心を通して行われる。ノウハウを記した本があるわけでも、虎の巻があるわけでもない。しかも、今の時代に入門してくる若者の多くは文楽とは無縁の一般家庭出身で、義太夫節や三味線に関してほとんどが白紙状態。師匠はそれこそ、三味線や撥の持ち方から教えるのである。彼らを一人前の技芸員にして舞台に上がるまでに育てるには、どれほどの根気と時間がかかるのだろうと思ってしまう。それでも、師匠は弟子を教えて、教えて、教え抜く。それは、なんとしても、文楽という芸を次代に、後世に伝えたい、その一心ではないだろうか。
補助金と継承の難しさ
平成24年、大阪市が文楽協会への補助金を見直す方針を打ち出した。当時の橋下徹大阪市長と文楽の技芸員の間で意見を交換する公開面談が行われたことがあった。その際、大阪市は活動費の支給について、領収証の添付が必要であると説明した。確かに、三味線の修理など、物理的な必要経費には領収証が必要だろう。しかし、芸の継承は、目に見えるものだけではない。師匠と弟子は家族以上の関係ともいわれ、師匠は弟子を全人格的に面倒を見る。領収証は存在しないのだ。
また、伝統芸能の師弟間では、芸を教えるのに授業料などもない。歌舞伎や能、日本舞踊などもみな同じだ。自分の師でない先輩に教えを請いにいくことも多い。それでも師匠や先輩は忙しい合間を縫って惜しみなく教えるのである。
かつて、伝統芸能の世界では内弟子制度が多かった。弟子は師匠の家に住み込み、家の雑用もこなしながら、師の背中を見てさまざまなことを学んでいった。近年は住宅事情などから住み込みの弟子はほとんどいなくなったが、それでも師と生活をともにしながら芸を学ぶことが多い。昔は師匠が「白」を「黒」といえば「黒」という時代もあったが、現代はそういうわけにはいかず、師弟の関係性も時代とともに変わっていった側面もある。
それでも、師匠は弟子を、自分の時間もエネルギーも割いて教え抜く。そこにあるものは何なのか。
「人を遺す」という使命
プロ野球の世界で名選手、名監督として知られた野村克也氏の座右の銘は「人を遺すを上とす」だったそうだ。これは明治から昭和初期にかけて活躍した政治家、後藤新平の言葉「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とす」が基だったようだが、伝統芸能の世界も、スポーツも、政治経済も全て、人を育てることが上に立つものの使命であるのは同じなのかもしれない。それこそが彼らの誇りなのである。



