美貴子が女学校を卒業した年、関東軍は清朝最後の皇帝・溥儀をトップに立てて「満州国」の建国を宣言した。とはいえ、実権は日本人の官僚や関東軍が握っており、住民の自治ではなく、日本の植民地に近い状態だった。同じ年には、海軍の若手将校らが、首相官邸を襲撃し、満州国建国に反対の立場をとっていた犬養毅首相を暗殺したクーデター事件、五・一五事件が起きていた。
国際連盟脱退と父の沈黙
美貴子が女高師に入学した年、日本は満州事変や、強引な満州国設立が国際的な非難を浴び、国際連盟から脱退していた。そんなことをしたら、日本は世界から孤立してしまうのではないか……。銀座で家族で食事をした帰り、美貴子はそんな疑問を父にぶつけた。しかし、いつもはどんなことでも美貴子や富美子にわかりやすく説明してくれる父は決して口を開こうとはせず、人さし指を美貴子の口元に立てた。
「その話は外ではしないように」
それだけ言うと、父はもう何も口にしなかった。日本は戦争への道を進んでいるのではないか、大連にいる友人たちはどうなってしまうのか、日本に帰ってこなくて大丈夫なのだろうか……。美貴子の胸のうちには父に聞きたいことが山のようにあったが、どこか沈鬱そうな父の顔を見ると、もうそれ以上のことを聞くことはできなかった。その代わり、というのでもないのだろうが、街角の洋菓子店で父はチョコレートを一箱買ってくれた。「寮のみなさんと食べなさい」と。
寄宿舎での密かな行動
ああ、また寄宿舎か、と思いながら、日曜日の夜に美貴子は大塚に戻った。
バッグの中には父が買ってくれたチョコレートの箱がある。部屋の隅でそっと箱を開けると、宝石のような六粒のチョコレートが天井の灯りににぶく光った。同室の生徒は八人……。寝起きを共にする四人とだけ食べてもいいのかもしれなかったが、美貴子の頭にひらめくものがあり、チョコレートの箱をブラウスの裾に隠して部屋を出た。自習室を覗くと、スエと数人の生徒が、教科書やノートに顔を埋めるようにして勉強をしていた。日曜日の夜だっていうのに、何もそこまで……と思いながら、美貴子はスエの後ろにまわり、背中をそっと指でつついた。