心労が生んだ中世の最高学府 再興に尽力した武将 足利学校
心労が生んだ中世の最高学府 再興に尽力した武将

足利学校は日本最古の学校である、といわれる。創立の年は、よくわからない。江戸時代には、小野篁が創立したと信じられていた。小野篁は平安初期の貴族で、漢詩と和歌に優れ、百人一首にも「わたの原八十(やそ)島かけて」がその作として採られている。ただし足利学校との関係については同時代の史料の裏づけはないようだし、小野篁という人自体も元来が各方面での説話化、伝説化がはなはだしいので、疑いは尽きない。

誠実な武将が出会った「愚かな上司」

感動的なのは、創立よりも再興の話のほうである。上杉憲実という武将がいた。彼の人生の主題は「最も誠実な人間が、最も愚かな上司に出会ってしまったら」という、現代的にストレスフルなものである。

憲実は関東管領という職にあった。直属の上司たる鎌倉公方は足利持氏という年上の男で、自己評価がきわめて高く、自分を英雄と思い込んでいるふしがあり、京都本社「花の御所」からの独立の野望を持っていた。憲実はこれを諫めたが、持氏は聞かなかった。元服した息子の名の一字を京都の将軍からもらうという従来のならわしを無視した上、ついに憲実を討とうとしたため、憲実はやむなく京都に援軍を乞い、その命によって返り討ちにした。いわゆる永享の乱である。

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勝利の後に訪れた心の葛藤

憲実は持氏を鎌倉の永安寺という寺に閉じ込め、逃げられぬよう兵を固めた。だが憲実の真面目は、むしろこの後にあった。京都に何度も「殺せ」と命じられたにもかかわらず手を下すことをせず、逆に助命を嘆願した。嘆願しつつ、自分の持っている貴重な本を足利学校へ寄贈したのである。

これは奇妙な行為ではないか、と私などは思う。理由は、むろん推察できる。足利学校は鎌倉から少し離れた下野国にあり、戦火のあおりを食う恐れがなく、安全に保管できるから。それはまちがいないだろう。だがこの時点では、客観的に見て、そこまで事態は深刻でもなかった。何しろ完勝したのだ。憲実にはよりいっそう主観的な、本質的な動機があったと見るほうが自然である。その動機とは、ストレスだった。

学問への思いが生んだ「坂東随一の大学」

ストレスが極限に達したのだ。長年のあいだ片方の目で鎌倉を見て、もう片方の目で京都を見るといったような板ばさみの生活を送ったあげく、とつぜん持氏を生かすか殺すかの岐路に立たされて、混乱したというか、どちらを選ぶのも辛かった。生かせば京都の不信を買う。殺せば主人殺しの背徳者になる。そんな誠実な心の悩みの奥底で、足利学校の存在が輝きを増したのだ。

憲実は学問好きだった。それ以前から復興の手助けをしていただろう。臨済宗の名僧・快元を招いて初代庠主(校長)とし、教師をそろえ、建物をそろえて学生を招いた。その学校の存在に思いを馳せ、貴重な本を預けることで、憲実は心の落ち着きを取り戻し、困難な決断をすることができた。結局、憲実は兵を進め、持氏を自害に追い込んだのである。

憲実は、その後いよいよ学校のために力をつくした。学校は約一五〇年後の戦国時代には一大権威となっていて、ポルトガルから来た宣教師ルイス・フロイスも、その著書『日本史』に「坂東随一の大学」と記している。現在は観光地になっており、儒教ふうの孔子廟と禅宗ふうの方丈や庫裡が共存する景観が独特で、庭も広く、歩いていて気が休まる。

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