高浜虚子と水原秋桜子の愛憎、俳句観の相克を描く連載第25回
高浜虚子と水原秋桜子の愛憎、俳句観の相克を描く

水原秋桜子が1952年に著した『高濱虚子 並に周囲の作者達』は、抑制された文体で虚子に対する愛憎を克明に描いた。秋桜子は自ら虚子に帰依して俳句の腕を磨いたが、一人前になると師のもとを去る。虚子の「凡愚救済」思想や、初学者が増えたホトトギスの状況を受け入れられず、自身が愛する俳句の神様を信じて開宗する道を選んだ。

弟子離反の物語は成立せず

俳句観の違いに基づく弟子の離反という物語は、うまく成立していない。秋桜子が唱える「主観」や「調べ」を重んじる俳句は、虚子が実作を通して構想する俳句世界に包含されるためだ。有効なのは、「周囲の作者達」による「宗教に対する盲信」や、それに甘んじる虚子の振る舞い、弟子の育成法、結社の運営方針などへの批判である。

1931年の武蔵野探勝会で離脱表明

同書によると、秋桜子が虚子に「すべてに興味を持てなくなりました」と離脱の意思を伝えたのは、1931年(昭和6年)7月19日、第12回武蔵野探勝会の席上だった。探勝会の吟行先は、秋桜子がよく知る粕壁(現在の埼玉県春日部市)と古利根。最後の参加と心に決めた秋桜子は、万難を排して幹事役を引き受け、土地鑑のある弟子の加藤楸邨を参加させようと取りはからうが、結局、深謀遠慮の末に楸邨は不参加となった。

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同じ医学者であり同門の俳人だった秋桜子と高野素十の確執も、この時の武蔵野探勝会で表面化する。締め切りのある作句の時間に、秋桜子は素十と将棋を指したという。両者の煮え切らない関係の特性から来る奇異な行動だが、虚子はそれを容認した。

緊張感の中で詠まれた二句

そのような緊張感のある会で詠まれたのが、冒頭の二句である。「夏草に蝶々水に家鴨かな」の虚子の句は絵画的な対句で、五・七・五の七において意味が分割される。一方、「泳ぎ子の這入りし垣の葵かな」の秋桜子の句では、「泳ぎ子」から「葵」への季語のバトンが、動から静への流れをつくる。裸体の肌色、垣の緑、葵のピンクと、鮮やかな色のコントラストも目に浮かぶようだ。

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