小説『夫婦善哉』で知られる無頼派の作家、織田作之助。しかし、彼が33歳で早世した際、内縁の妻が看取った事実はあまり知られていない。のちに銀座のバーのマダムとして有名になるが、心には常に作之助への思いを抱き続けた織田昭子(ペンネーム)の生涯を、文筆家の平山亜佐子さんが詳細に追った。
女優となり舞台で作之助と出会う
第3回:織田昭子[1922(大正11)年~2004(平成16)年]
太宰治、坂口安吾と並び「戦後無頼派作家」と称される織田作之助。その内縁の妻として、織田昭子という女性が存在した。二人の生活は足掛け4年、実質的には1年4カ月に過ぎなかったが、ヒロポンと酒と女と執筆に溺れる作之助を支え続け、最期を看取った。その後はバーのマダムとして生き、ベストセラーを世に送り出しながら、作之助の名声を後世に残すことに人生を捧げた。愛した時間そのものを自らの生の軸に変えて生き抜いた、稀有な女性である。
昭子の本名は輪島昭子。1922(大正11)年12月9日、東京・木挽町四丁目(現・東銀座)に生まれた。小学校卒業後、東京市立第一高等女学校に進学。4年生のとき新協劇団に入団したが、戦時中に幹部俳優らが検挙されて公演が中止となり、日活多摩川撮影所のニューフェイスとして採用された。芸名は築地燦子(つきじあきこ)となった。その後、映画や舞台に出演しながら、父の死後は写真モデルや帽子屋のマネキンなど家計を助ける仕事もこなした。
1943(昭和18)年、織田作之助原作の舞台「わが町」で四人姉妹の末妹の役を得た。ここで昭子は原作者の織田作之助と運命的に出会うこととなる。
作之助からの強引なアプローチ
作之助は1913(大正2)年、大阪天王寺区の仕出し屋の長男として生まれた。猛勉強の末に第三高等学校(現・京都大学)に入学したものの出席日数不足で退学し、大阪に戻って同人雑誌を創刊。その後、「夕刊大阪」への時代小説連載や『夫婦善哉』の発表で作家としての地位を確立した。女給だった宮田一枝と結婚していたが、1944(昭和19)年8月6日、一枝はわずか32歳で子宮がんで亡くなる。昭子と出会ったのはその数カ月前のことだった。
自作「わが町」の稽古場に現れた作之助は、楽屋着の派手な浴衣を着て客席に座る昭子の視線とぶつかった。後に小説『夜の構図』の中で「主役の女優よりも溌溂とした魅力があり、何よりも睫毛が長い」と記している。作之助は公演が始まっても帰阪せず、舞台裏、楽屋、廊下などさまざまな場所に現れた。
あるとき、緞帳(どんちょう)が開く前の舞台上で「今夜とれたら、トニイ(喫茶店)へ来へんか」と昭子を誘い、「来へんかったらここからのけへんぜ」と退かなかった。昭子は慌てて「行きます、行きますから、のいてください」と言うしかなかった。文学少女ではなかった昭子は作之助のファンでもなく、その強引さに腹が立ったという。
前の妻は病死、大阪での同棲生活
作之助の妻・一枝が病死した後、昭子は作之助の強引な求愛に次第に心を開くようになった。1944年秋、昭子は作之助と共に大阪で同棲生活を始める。作之助の執筆活動は多忙を極め、昭子は原稿の整理や身の回りの世話に追われた。しかし、作之助の女癖の悪さや酒癖の激しさに悩まされることも多かった。
別れ、そして復縁
同棲生活は決して平穏ではなかった。作之助の浮気や浪費が原因で、一時は別れも経験した。しかし、昭子は作之助への愛情を断ち切れず、復縁を果たす。復縁後も作之助の生活は乱れ続けたが、昭子は献身的に彼を支えた。
作之助の女グセは治らず
作之助の女性関係は絶えず、昭子は幾度となく嫉妬と悲しみを味わった。それでも昭子は作之助の才能を信じ、彼のそばを離れなかった。作之助は作品の中で昭子をモデルにした女性を描くこともあり、その存在は彼の創作活動に大きな影響を与えた。
東京に越して1カ月で大喀血
1946年、作之助は東京での活動を本格化させるため、昭子と共に上京した。しかし、東京に移ってわずか1カ月後、作之助は大量に喀血。結核が進行していたのだ。昭子は必死の看護を続け、喀血した作之助の口から痰を吸い出すなど、危険を顧みずに介護した。このエピソードは、昭子の献身を象徴するものとして語り継がれている。
作之助は33歳で死去、昭子は…
1947年1月10日、織田作之助は33歳の若さでこの世を去った。昭子は最期まで彼のそばに寄り添い、看取った。作之助の死後、昭子は深い悲しみに暮れたが、彼の遺稿や作品を守り続ける決意を固めた。
銀座のバーのマダムとして有名に
作之助の死後、昭子は生活のために銀座でバーを開業した。彼女の店は文学者や文化人が集う名店として知られるようになり、昭子自身も「銀座のマダム」として広く認知された。その一方で、作之助の作品の復刊や顕彰活動にも積極的に取り組み、彼の名を後世に伝えることに尽力した。
作之助の友人と結婚するが…
その後、昭子は作之助の友人でもあった男性と結婚したが、その結婚生活は長くは続かなかった。それでも昭子は作之助への思いを決して忘れることなく、彼の遺したものを大切に守り続けた。
82年の人生は幸せだったか
2004年、織田昭子は82年の生涯を閉じた。彼女の人生は、作之助との短いながらも濃密な時間に彩られていた。作之助を失った後の長い年月も、彼への愛を生きる糧として歩み続けた。その生き様は、多くの人々に感動と共感を与えた。
織田昭子の波乱万丈の人生は、愛する人を支え、その記憶を守り抜くことの尊さを教えてくれる。彼女はまさに、無頼派作家の内縁の妻として、そして一人の強い女性として、歴史にその名を刻んだのである。



