成田空港強制収用に村岡敏英氏「ぎりぎりまで任意取得努力を」
成田空港強制収用に村岡敏英氏「ぎりぎりまで任意取得努力を」

成田空港の機能強化に向けた滑走路新設を巡り、成田国際空港会社(NAA)は用地の強制収用を可能にする土地収用法に基づく手続きを進める方針だ。平成3年に強制収用放棄を確約した村岡兼造元運輸相の次男で、政務秘書官だった国民民主党の村岡敏英衆院議員は産経新聞のインタビューに、成田空港問題に関わった経験を振り返り、「ぎりぎりまで任意取得に向けた努力をすべきだ」と訴えた。

35年前の密命

第2次海部改造内閣で村岡兼造氏が運輸相だった平成2年12月から3年11月は、成田空港問題の話し合い路線が進んだ時期だ。村岡氏は「前の大臣の江藤隆美さんは反対派に『外国なら戦車をもって(反対派を)1時間で整理する』と言ってしまったし、次の大臣の奥田敬和さんは『いつまでも待っているわけにはいかない』と強制収用に含みを残す発言をしてこじらせた。そこに挟まれた父は穏健派だった」と振り返る。

村岡秘書官は成田空港問題で密命を帯びていた。昭和52年に機動隊との衝突の中で亡くなった反対派の支援者、東山薫さん=当時(27)=の事件は、遺族が「死因はガス銃の水平撃ちだ」と主張して法廷闘争になるなど、国との関係がこじれていた。国として14年間、誰も弔意を伝えていなかった。「官僚だけでは相手にされないだろうということで、大臣の息子である私が行くことになった」という。

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弔問と確約

平成3年2月26日、村岡氏はSPに守られ、官僚と一緒に奈良市の自宅にうかがった。「支援者やマスコミが待ち構えていて、全然お忍びじゃなかった」と当時を振り返る。裁判で争っている以上、国や警察の責任を口にするわけにはいかない中で、「成田空港建設過程の中でご不幸に巻き込まれたご子息にお悔やみ申し上げます」と述べた。「罵声を浴びせられるかと思ったが、東山さんのお父様は『わざわざ来ていただきまして、本当にありがとうございます。国がやった事業に息子が巻き込まれたのに、国からは誰一人、来てくれませんでした。本当に感謝します』と話し、涙を流していた」という。

村岡秘書官の弔問を反対派の一部は評価した。3カ月後の5月28日に父は、成田空港問題の平和的解決と地域振興を目指す第三者機関「地域振興連絡協議会」に対して「いかなる状況のもとにおいても強制的手段を取らない」と確約した。これによって反対同盟のうち熱田派が国などとの公開討論「成田空港問題シンポジウム」への参加を決めた。

過激派の脅威と教訓

熱田派の話し合い路線の一方、北原派を支援する中核派などの過激派はテロを繰り返していた。「『村岡秘書官を殺せ』と言っていた人もいたらしい。ある日、私の自宅に爆弾を仕掛けたという情報があって、警視庁が周辺を検索した。幸い、爆弾は見つからなかった。『農家とは話し合い、過激派は封じ込める』というのが政府の方針だった」と明かす。

成田空港問題以外にも、村岡運輸相時代は湾岸戦争の避難民移送や信楽高原鉄道事故、JRの上場問題などがあった。「信楽高原鉄道事故では信楽高原鉄道とJR西日本の列車が正面衝突して42人が亡くなった。父は遺族への謝罪などを誠実に行ったが、JR西日本は対応がまずくて、後々まで批判された。謝らなければならないときは謝るというのが教訓だ」と語る。

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「一利一害」の政治

成田空港問題で再び強制収用が浮上していることについて、村岡氏は「父はよく『一利一害』と言っていた。政策には国民に利益があれば害もある。害に配慮するのが政治だ。成田空港問題は最初にとことん話し合うべきだった。空港の機能強化に向けて、地域の声に真摯に向き合い、ぎりぎりまで任意取得に向けた努力をすべきだ」と述べた。