東京・銀座のシンボルとして親しまれている銀座4丁目交差点の時計塔。しかし、そのルーツは少し離れた場所にあったことをご存じだろうか。かつて銀座8丁目には「八官町の大時計」と呼ばれる別の時計塔が存在し、これが現在の時計塔の原点とも言われている。設置から150年を迎え、銀座の街を歩きながらその歴史の痕跡を追った。
150年前に登場した「大時計」
JR新橋駅から銀座方面へ外堀通りを約300メートル進んだ場所に、小さな信号交差点がある。そこで、独協大職員で銀座の時計塔の歴史に詳しい資料収集家の昼間良次さん(52)が右手前方を指さした。昼間さんはこの日の案内役だ。
「ちょうどこの角です。150年前、時計商の小林伝次郎が店の屋上に大時計を設置しました。これが銀座で最初の時計塔でした」と昼間さんは語る。現在、その跡地には「ホテル ザ セレスティン銀座」が建っており、時計塔の名残は一切ない。当時の絵や写真と照らし合わせると、その存在感が際立つ。
文明開化の象徴
昼間さんの収集した資料によると、小林伝次郎が時計塔を設置したのは1876年(明治9年)4月。政府の近代化政策のもと、欧米の太陽暦が導入され、時間も日の出入りを基準とする「不定時法」から1日を24等分する「定時法」に切り替わった直後だった。
時計は英国製の輸入品で、文字盤の直径は約6尺(1.8メートル)。遠くからも見渡せる時計塔はすぐに評判となり、当時の地名から「八官町の大時計」と呼ばれた。塔に設けられた鐘の音は約1.6キロ離れた増上寺まで聞こえたとされ、その様子は後に永井荷風の小説「濹東綺譚」にも登場する。
昼間さんは「当時は文明開化の真っただ中。れんが造りの街並みなど銀座が西洋化していく中で、時計塔は注目を集めました。時計店の広告としての側面も大きかったのではないでしょうか」と話す。
時計塔を見上げた少年・服部金太郎
この頃、八官町の時計塔を見上げていた一人の少年がいた。後のセイコーグループ創業者、服部金太郎である。当時、時計商として成功していた小林から大きな影響を受けたとされる。
日本橋や上野の時計店で奉公した服部は1881年、銀座に服部時計店を創業。1894年には銀座4丁目にあった新聞社のビルを買収し、小林の時計塔にならうように屋上に時計塔を設置した。この時計塔はその後一度解体されたが、1932年に設置された2代目が現在の銀座のシンボルとなっている。
一方、小林は「東京時計商工業組合」の初代頭取に就任。1894年に竣工した2代目東京府庁舎の時計塔も手がけたとされる。小林没後の1923年、八官町の時計塔は関東大震災で焼失。1943年には小林時計店が廃業した。
「同郷の偉人」を追って
八官町の大時計跡から銀座4丁目交差点へ向かう途中、昼間さんが明かした。「小林の出身地は埼玉県八潮市。私と同郷なんです」。学生時代は電車で銀座に来て映画を見るのが好きだったという昼間さん。約30年前、同郷の偉人が銀座の街を形作った一人だと知り、文献や資料を集めるようになった。
昼間さんはリーフレット「時計商・小林伝次郎と銀座」を制作し、銀座の街歩き企画も開催。2026年6月には八潮市で「八官町の大時計」150年を記念した講演会を開く予定だ。
八官町の大時計跡からゆっくり歩いて約15分。銀座4丁目の交差点に到着した。多くの人が行き交う中、昼間さんは足を止め、時計塔を見上げて笑った。「時計の針のように、この街も一つ一つ歴史を積み重ねてきました。先人たちの努力や思いに触れると、華やかな銀座も少し違って見えませんか」



