中国史書から消えた倭国「空白の4世紀」前夜の古代日本
突如として中国の歴史書から倭国の記述が消えた「空白の4世紀」。その直前の古代日本では、いったい何が起きていたのか。本稿では、駒澤大学名誉教授・瀧音能之氏の解説をもとに、考古学と文献史学の最新知見からその実像に迫る。
卑弥呼政権を支えた魏の滅亡
「空白の4世紀」は、卑弥呼政権の後ろ盾だった魏(三国時代の一国)が滅亡した後に始まったとされる。魏は265年に晋に取って代わられ、その後中国は混乱期に入る。これにより、倭国との外交記録が途絶え、中国史書から倭国の記述が消失したと考えられている。
高地性集落が示す戦乱の兆し
戦乱の指標の一つとして、高地性集落の分布が注目される。3世紀前半には、奈良盆地と尾張を結ぶ大和街道沿いに高地性集落が集中して確認されている。これは、当時の倭国で軍事的緊張が高まっていたことを示唆する。
卑弥呼の脆弱な権力基盤
狗奴国との軍事的緊張が高まる一方で、卑弥呼は北部九州や吉備の首長ではなく、連合政権における共立王に過ぎなかった。そのため、卑弥呼は軍事権を持たず、権力基盤は脆弱だったと考えられる。こうした状況を打開するため、卑弥呼は景初3年(239)に魏に朝貢を行い、明帝から「親魏倭王」に任じられ、金印・紫綬(綬は金印につける紐で、紫は最高ランクを示す)を授けられた。
「親魏倭王」の称号の意味
「親魏」の称号は、倭国と中央アジアのクシャーナ朝(大月氏)のみが授爵したものである。『魏志』倭人伝は、邪馬台国までの道程が不正確であることが知られているが、歴史学者の岡田英弘氏は、魏の都・洛陽から邪馬台国とクシャーナ朝がほぼ等距離に記されていることを指摘した。三国時代を迎えて不安定な中国の国内情勢に対して、卑弥呼は魏の有力な同盟国であることを演出し、「親魏倭王」という破格の称号を得たとも考えられる。
巨大前方後円墳の出現
「親魏倭王」となった卑弥呼は、傀儡的な共立王から魏の後ろ盾を得た「王の中の王」となった。その象徴が、墳丘長約278メートルを誇る巨大な箸墓古墳(奈良県桜井市)である。これはそれまでに類例のない巨大な墳墓であり、その後、ヤマト王権の支配地域に展開される前方後円墳の雛形となった。近年では、ヤマト王権の初代大王を卑弥呼とする指摘もされている。
以上が「空白の4世紀」が始まる直前の古代日本の状況である。魏の滅亡により後ろ盾を失った倭国は、その後約一世紀にわたり中国史書から姿を消すこととなる。



