神田の古き良きキャンパスでの1年間
フォトジャーナリストの豊田直巳は、浪人を経て入学した中央大学が神田にあった時代を回想する。黒ずんだレンガ色の古い校舎が立ち並び、大ヒットした「学生街の喫茶店」の歌が似合う街並みが広がっていた。しかし、この神田駿河台のキャンパスには、わずか1年間しか通うことができなかった。
郊外移転の波と学生の反対運動
当時、東京教育大学(現在の筑波大学)をはじめ、都内の大学の郊外移転が盛んに行われていた。豊田の大学も、入学翌年には八王子市の多摩キャンパスへの移転が決定していた。多くの学友がこの移転に反対し、バリケードで神田の校舎を封鎖するなどの激しい反対運動が展開された。
しかし、大学側はすでに完成済みの新キャンパスへの移転を遅らせることはなく、学生たちの抵抗も空しく終わった。豊田は当時を振り返り、大学の決断が覆ることはなかったと語っている。
文学部生ながら文学を研究せず
豊田自身は、文学部に所属しながらも「勉強しない」ことを自慢するような学生だったという。「文学なんて研究するものではない」という独自の理屈を掲げ、同人誌を発行したり、8ミリ撮影機を購入して仲間たちと映画制作に没頭したりしていた。
「自主ゼミ」と称して太宰治や芥川龍之介の読書会を週2回開催していたが、その主な目的は後の飲み会にあったと正直に告白している。
オイルショック下の厳しい就職戦線
不勉強だった豊田も、学生たちが「ところてん式」と呼んでいた大学を4年で卒業することになった。しかし、1973年の第1次オイルショックの余波により、就職難の時代が訪れていた。
希望する企業に入ることはおろか、就職すること自体が極めて困難な状況だった。最終的に都内の小さな出版社への入社が決まったのは、卒業間近になってからのことだった。豊田は、激動の学生時代と社会人への第一歩を、貴重な経験として語り継いでいる。



