秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像:荒木村重と饅頭で遊ぶ余裕はなかった信長の窮地
荒木村重と饅頭で遊ぶ余裕はなかった信長の窮地

ライフ #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像 荒木村重と饅頭で遊ぶ余裕はなかった織田信長の窮地、"光秀と村重"2人の裏切り者の共通点からわかる《信長の抜かり》 8分で読める 公開日時:2026/06/14 08:30

信長にとって荒木村重は“窮地を脱する大きな一手”でした(写真:MIKO / PIXTA) 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA) フォロー 1/4 PAGES INDEX

荒木村重の離反に再三の説得を試みた織田信長

荒木村重の従属によって織田信長は息を吹き返す 信長の厚遇が村重の心に響かなかったワケ 信長を相手に約2年も粘った荒木村重の豪胆 連載「秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像」の第25回は、織田信長から離反した荒木村重について『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。

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荒木村重の離反に再三の説得を試みた織田信長 自分を裏切ったということがよほど意外だったらしい。天正6(1578)年10月21日、荒木村重が背いたという情報が入ってくると、信長は「不満があれば聞く」として、信用できる家臣を派遣している。堺奉行の松井友閑、重臣の明智光秀、側近の万見重元の3人だ。 なかでも光秀は村重の嫡男・村次の義父にあたる。説得役として信長も期待するところが大きかったことだろう。 3人に対して村重は「事実無根」と回答しながらも、安土への出仕は拒否。これだけでも処罰されてもおかしくはないが、信長は11月3日に再度、光秀と友閑、そして今度は羽柴秀吉の3人を遣わせた。それでも村重が説得に応じないとなると、自身も書状を出して、離反を批判しながらも「早く出頭せよ、待っている」とメッセージを送った。 信長が村重をできるだけ説得しようとしたのは、その実力をよく知っているがゆえだろう。村重が信長に仕えた状況を紐解けば、信長が手放したくなかった理由もよくわかる。

荒木村重の出自はよくわかっていないが、一説によると、天文4(1535)年に信濃守・荒木義村の子として生まれたとされる。荒木一族は摂津の中でも最有力だった池田氏に代々仕えており、村重は池田勝正の重臣となった。村重は勝正の先代にあたる池田長正の娘を娶り、その一族衆となったようだ。 次ページが続きます:【白井河原の戦いに勝利し信長に見込まれる】 2/4 PAGES 3/4 PAGES 4/4 PAGES

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