秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像:ドラマで描かれない残虐性
秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像:ドラマで描かれない残虐性

豊臣秀吉の天下統一を支えた弟、豊臣秀長。大河ドラマ『豊臣兄弟!』ではお調子者として描かれることが多いが、その実像は兄の暴走を食い止めるブレーキ役だった。秀長が天正19年(1591年)に没した後、秀吉は残虐性を顕にし、秀次事件や朝鮮出兵といった蛮行に走る。本稿では、ドラマではまだ描かれていない秀吉の過酷な戦術と、秀長の存在意義を探る。

朝鮮出兵での耳鼻削ぎの実態

秀吉は文禄・慶長の役で朝鮮に2度侵攻し、民衆を殺戮しながら進軍した。国内戦と異なり、首級を持ち帰るのは困難だったため、豊臣軍は殺した相手の耳や鼻を切り取った。戦国時代、論功行賞の証として耳鼻を削ぐ慣習はあったが、秀吉は特別な取り決めを課した。「集めた鼻が枡一升分になった者から住民の生け捕りを認める」というノルマだ。住民を生け捕りにしたければ、一定量の鼻を集めねばならず、これが耳鼻削ぎの横行を招いた。切り取られた耳や鼻は塩や酢に漬けられ、秀吉の元へ送られた。兵士だけでなく、子どもや赤ん坊も犠牲となった。

秀長没後の暴走と時系列

秀次事件(1593年)や朝鮮出兵はいずれも秀長の死後である。信頼できるナンバー2を失ったことで、秀吉の暴走が始まったと解釈できる。大河ドラマ『豊臣兄弟!』の時系列では、これらの蛮行は描かれない可能性が高い。しかし、秀吉の残虐性は本能寺の変(1582年)以前から戦場で発揮されていた。

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三木の干殺し:1年10カ月の兵糧攻め

天正6年(1578年)、播磨の有力大名・別所長治が織田方から毛利方に寝返ると、秀吉は三木城を包囲した。8000の兵を飢えさせるため、秀吉はかがり火を焚き続けて夜も眠らせず、体力を奪った。この兵糧攻めは1年10カ月に及び、城内では雑草やぬかすら尽き、牛馬を食べ、最後には死人の肉を食べる地獄絵図となった。この「三木の干殺し」で敵軍を討伐した秀吉は、次に因幡の鳥取城へ攻め込む。

鳥取城の兵糧攻めと信長公記の記述

天正9年(1581年)、秀吉は鳥取城を包囲し、3000の兵を兵糧攻めにした。『信長公記』には、餓死した兵の死体が城壁に積み上がる惨状が記されている。秀吉は城内の兵糧を事前に買い占め、補給を絶った。包囲中、城兵は草や木の根を食べ、餓死者が続出。最終的に城主・吉川経家は切腹し、開城した。これらの戦術は、秀吉の冷酷な戦略家としての一面を如実に示している。

秀長の役割と歴史的評価

伝記作家の真山知幸氏は「秀長は秀吉の暴走を抑制する存在だった」と指摘する。秀長は政治や外交でも手腕を発揮し、兄の苛烈な側面を和らげた。彼の死後、秀吉は朝鮮出兵や秀次事件で非道な決断を繰り返す。大河ドラマでは描かれない秀吉の実像に、秀長の存在が大きな影を落としている。

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