与謝野晶子が愛した初島の花々と現代の魅力:観光と歴史を巡る旅
与謝野晶子が愛した初島の花々と現代の魅力

与謝野晶子が魅了された初島の花々

与謝野晶子は1921年1月6日、夫の鉄幹とともに友人ら5人で熱海から手こぎ船を雇い、約2時間かけて初島に上陸した。当時、晶子は歌人や言論人として第一人者でありながら、1919年3月に13人目の末娘を出産したばかり。育児から解放され、ようやく家を空けられるようになった時期だった。「さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館」の森下明穂学芸員(54)は「歌を詠める環境に行けるのは非常にうれしかったはず」と推察する。

島ではかつての名主「新藤氏」の家でもてなされ、寺社や小学校を見学。晶子は特に、ヨーロッパのような丸石の道や手入れの行き届いた植物に感心した。強い印象に残ったのは、東京の4月のような暖かさで満開の椿と水仙だったが、椿は油を取るために重宝され、水仙は換金価値がないため根絶されようとしていることを知り、複雑な思いを抱いた。

島の歴史と自給自足の暮らし

「新藤氏」の子孫である保さん(87)によると、昭和30年代後半に観光開発されるまでは、島はすべて自給自足で、椿油作りも大変な作業だった。大島桜が多いのも、薪用に切ってもすぐ伸びるからだという。島の世帯数は長く41に制限され、次男以下の子女は島を出る決まりだった。これは雨や耕地が少ないためで、半農半漁の暮らしが続いた。

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初島区長で漁協組合長も務める宮下泉さん(59)は「うちは最後の方の分家で、自分が7代目。知っている仲間で200年以上やってきた」と語る。神奈川県の電機会社で会社員をしていたが、「子育てはここでしたい」と戻ってきた。現在も医師がおらず、急病時には救急船やドクターヘリに頼らざるを得ないが、1980年には海底送配水管が設置され、一昨年には2本目も完成。世帯数は35ある。

観光業の盛況と新たな取り組み

島の経済を支えるのは観光業。熱海人気の恩恵もあり、富士急グループが運営する複合リゾート施設「PICA初島」では、熱海が国産レモン発祥の地とされることから、レモンをテーマにしたオブジェや神社を設置し、飲食メニューも開発。昨年には100本近くのレモンの木を植樹した。支配人の間部英さん(40)は「皆さんに『なぜレモン?』と聞かれます」と笑う。新鮮な海の幸を楽しめる食堂街も人気で、1959年に設置された灯台は2007年に全国15番目の上れる灯台に改修された。

初島ブルーの海とダイビング

海の青さは今も変わらない。初島ダイビングセンターの小林直矢さん(48)によると、河川がなく濁った水が流出せず、陸からすぐに深くなり潮の流れも速いため、透視度・透明度は本土沿岸よりかなり高い。「『初島ブルー』といわれるように、海が青く感じる。ダイビングスポットとして非常に面白い」と話す。

アクセスと名物

東京駅から東海道新幹線で約45分の熱海駅からバス(15分)やタクシー(10分)で熱海港。そこから1日10便のフェリーで約30分。島の名物はのどごしのよいところてんで、毎年5月に行われるところてん祭りは今年で51回目。島特有のみそダレや酢じょうゆ、黒蜜などで味わえる。原料のテングサの好漁場で、解禁の4月には防波堤で干され、その香りで春の訪れを感じるという。

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