秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像:鳥取城兵糧攻めと残虐性
秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像:鳥取城兵糧攻めと残虐性

大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、豊臣秀吉が「気の優しいお調子者」として描かれているが、歴史家の真山知幸氏はその実像について警鐘を鳴らす。秀吉は天下人となる過程で、信長をも凌ぐ残虐な戦術を駆使したという。特に有名なのが、鳥取城の兵糧攻め(通称「鳥取の渇え殺し」)であり、敵兵の多くが餓死した。また、豊臣政権最大の汚点とされる「秀次事件」では、実子秀頼の誕生後、甥の秀次に謀反の疑いをかけ、切腹させただけでなく、その妻子ら一族39名を処刑するという惨劇を引き起こした。

後世にも語られる「秀次事件」

真山氏は、物書き仲間の岡部敬史氏と都内の偉人スポットを巡る中で、大河ドラマの描写に疑問を抱いたという。「今回の大河では、秀吉のことを“気が優しいお調子者”として描いているけど、ここから残虐なところをどう描くんだろうね?」と岡部氏が語ったように、二人は秀吉の残虐性が今後どのように描かれるか気にかけている。秀吉の暴虐さは、秀次事件から明らかだ。秀吉が57歳で実子秀頼をもうけると、政権継承のため甥の秀次が邪魔になり、謀反の疑いをかけて切腹させた。さらに、その妻子ら39名も処刑され、豊臣一族の結束は破綻した。この事件により、最上義光や京極高次といった秀次と関係の深い大名たちの離反を招き、政権基盤が揺らぐ結果となった。

兵糧攻めで敵軍の兵が数多く亡くなる

秀吉の残虐性は戦術面でも顕著だった。鳥取城攻めでは、兵糧攻めにより城内の兵や民衆を飢え死にさせた。この戦いは「鳥取の渇え殺し」と呼ばれ、後世に語り継がれている。真山氏の著書『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』によれば、秀吉は敵の戦意を完全に喪失させるため、徹底的な兵糧攻めを敢行したという。この戦術は、信長の比叡山焼き討ちなどと並び、戦国時代の残虐な戦い方の一つとして記憶されている。

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秀吉は信長以上に残虐だった

一般に信長は「魔王」と呼ばれ残虐なイメージが強いが、真山氏は秀吉も同様に、あるいはそれ以上に残虐な側面を持っていたと指摘する。秀次事件での妻子39名の処刑は、豊臣政権の残虐性を天下に知らしめ、政権の不安定化を招いた。また、鳥取城の兵糧攻めでは、敵兵だけでなく一般市民も多数犠牲になった。これらの行為は、秀吉が天下統一を進める上で、恐怖による支配を選んだことを示している。

兄の野望のために腹をくくった秀長

一方、弟の豊臣秀長は、兄秀吉の野望を支えるため、自らの役割に徹した。真山氏は、秀長が秀吉の残虐な側面を理解しつつも、それを抑えるために尽力した可能性を指摘する。大河ドラマでは、秀長の穏やかな人柄が強調されているが、実際には兄の暴走を防ぐために苦慮したとみられる。秀長の存在がなければ、秀吉の天下統一はより血なまぐさいものになっていたかもしれない。

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