終戦から81年が過ぎ、原爆の被爆者は高齢化が進んでいる。被爆者団体によると、自身の体験を伝える府内在住の語り部は、数人しかいないという。4歳で被爆した大阪府守口市原爆被害者の会の会長、牧原清子さん(85)は、今年の夏も当時の体験や戦災孤児になった過酷な人生を語り、平和の大切さを訴えている。
4歳で被爆、地獄のような光景
牧原さんは2歳で母を病気で亡くし、3歳の時に父が船で朝鮮半島に向かう途中、沈められ戦死した。孤児になった牧原さんは親類に引き取られ、広島駅の近くで暮らしていた。
1945年8月6日の朝、爆心地から約2キロ離れた友人宅に遊びに行き、帰ろうと玄関に立った時、辺りが「ピカッ」と光った。気が付くと倒壊した家の下敷きになっていて、無我夢中で外にはい出ると、そこは裏庭だった。玄関から吹き飛ばされたらしい。
大声で泣きながら帰宅すると、辺りには顔や全身が熱線で焼けただれた人たちが、爆心地の方面から逃げて来た。手足の皮膚がはがれて垂れ下がり、服もぼろぼろに焼け、「痛いよ」「水をちょうだい」とうめいていた。「この世の光景とは思えませんでした」と牧原さんは振り返る。
そこから4キロほど離れた知人宅に避難する途中の道沿いには、多くの遺体が横たわっていた。その遺体は積み上げられ、油をかけて焼かれたと聞いている。叔母は右半身や顔にやけどを負い、薬は何もなく、ジャガイモとキュウリをおろした汁がその代わりだった。少しずつ回復したが、やけどの痕「ケロイド」は広範囲に残った。
牧原さんは「原爆は地獄です。人間の行為ではなく、核兵器を二度と使ってはならないと思います」と語る。
親類宅での過酷な生活、語り部としての活動
親類に育てられた約10年間の生活は、思い出すと涙が出そうになるという。食事は十分に与えられず、線路脇の雑草など食べられる物は何でも口にした。家の用事を言いつけられ、学校には遅刻してばかりで、ほとんど勉強できなかった。「血のつながった親さえいれば、といつも思っていました」と話す。
中学卒業後、広島にある大手建設会社の支店長宅に住み込んで、家事の仕事を10年間した。25歳で結婚してからは府内で暮らしている。
守口市原爆被害者の会には、1970年の設立時から参加した。初代の会長に頼まれたのがきっかけで語り部の活動を始め、約50年間続けている。今夏も市の「平和のつどい」などで体験を話した。
牧原さんは「戦争は絶対にするな、と伝えたいです。戦争がなければ原爆も落とされませんでした」と強調する。
子供たちに同じ苦しみを味わわせたくない
「私の話を聞いてくれる子供たちは本当にかわいいです。お礼にもらった感想文は大切に保管しています。この子供たちに、私と同じ苦しみを味わわせたくはありません。これからも、できる限り話し続けます」と牧原さんは語る。



