伝統の文学賞に現代労働の現場が映し出される
第175回を迎えた芥川賞の受賞作が15日に発表される。今回の候補作5作の中で目立つ特徴は、リモート勤務が増えた会社で働く女性や、職場環境の変化で意欲を失った中高年男性を描く作品など、「労働」を題材とした作品が並んだことだ。多様な働き方の中で、かつての年功序列や終身雇用といったモデルが崩れた時代に、社会と人間の向き合い方を見つめ直す欲求の高まりを反映しているように感じられる。(文化部 待田晋哉)
八木詠美「アンチ・グッドモーニング」:ホワイト職場の女性を襲う不眠
注目されるのは、八木詠美さん(37)の「アンチ・グッドモーニング」(文芸春号)だ。著者は2020年に太宰治賞を受賞したデビュー作「空芯手帳」が英訳され、26の国や地域で翻訳が進んでいる。海外での評価が先行した異例の書き手である。
今回の候補作は、リモートでのチャットやオンライン会議、動画を使った研修などが増えた現代の職場風景を背景とする。食品メーカーの広報部に勤める有希は、中年と呼ばれる年齢に差し掛かる女性社員。リモート勤務が主体で、「健幸」を掲げる表向きはホワイト職場の企業に勤め、穏やかな夫にも恵まれている。しかしある日突然眠れなくなり、8か月目を迎える。羊を数えても、生活習慣を変えても眠れず、暗闇の中で実家の脱衣所や高校時代の水泳部での嫌なことばかり思い出し、不眠は悪化の一途をたどる。
睡眠は、よく眠れるときは何も気にならないが、眠れなくなると急にその存在が意識される。眠れない時間には、日中考えたことのない生活や職場での気になることがよぎる。睡眠を失う女性を通じて、体温の伴わない「働きやすさ」などの言葉が一人歩きし、かえって職場の人々を追い詰める現実が刻み出されている。物語が進むにつれ、階段を踏むように話の流れが加速する構成は、架空の妊娠をした女性が臨月に向かって突き進む「空芯手帳」とも重なる。芥川賞は新鋭に与えられる賞とされるが、読み手を逃さない書き方をすでに自分のものとしている。
村司侑「ソリティアおじさんがいた頃」:無能とされた男性の人生
村司侑さん(47)の「ソリティアおじさんがいた頃」(文学界5月号)は、文学界新人賞を受賞したデビュー作だ。題名に思わずにやりとさせられる。昇進ラインから外れたり、仕事への意欲を失ったりして働かなくなった中高年の存在は、様々な職場で問題となっている。本作は、ある会社でパソコンゲームのソリティアばかりしていた男性が、退職後に火事で亡くなる。女性社員が葬儀に出たことをきっかけに、故人の人生について思いをはせる。
会社ではかつての輝きを失い、「無能な人」と位置づけられた男性が、葬儀の場を通して、家族が存在し、生活があったことを教えられる。競争社会の中で忘れられがちな人への共感を呼び起こす。
仁科斂「丹心」:中国の廃墟マンションを美術館に
仁科斂さん(31)の「丹心」(新潮4月号)は、中国で資金繰りに行き詰まり途中で放棄された集合マンション棟を、美術館に設計し直してほしいと依頼された日本の建築学科教授と助手の物語。本当に美術館は建つのか、そもそも建てる気があるのか、中国でのドタバタ劇を描く。日本から見れば全ての進行が大雑把でも、経済発展を続け若手にも可能性が開かれている中国の姿は、結果として日本に生きることの閉塞感もあらわにするかのようだ。
労働を描いた芥川賞の系譜
労働の現場を舞台とした芥川賞受賞作としては、男女雇用機会均等法第1世代の女性の仕事と友情を描いた2006年の絲山秋子さんの「沖で待つ」や、若者の働く環境が厳しくなった時代を舞台に仕事を掛け持ちする若い女性を主人公にした2009年の津村記久子さんの「ポトスライムの舟」などが思い出される。望んでも望まなくても、多くの人間にとって労働は膨大な時間が費やされるものであり、今も文学の場であり続けている。
小砂川チト「ゾンビ回収婦」:解雇された女性とVRゲーム
今回3回目の候補になった2作は、ともに読みごたえがある。小砂川チトさん(36)の「ゾンビ回収婦」(群像5月号)は、夫とともに職場を解雇された妻が主人公。仕事でも家庭でも自分が評価されていないように感じ、満たされない彼女は、VRヘッドセットを装着し、感染症のアウトブレイクでゾンビが次々と現れるゲームに没頭する。
「そうしてこの視界、なによりこの視界は、三十余年わたしの生きてきた主観よりも、ずっと主観的なのだった。わたしはいま生まれてはじめて、ちゃんと身体のなかにいるような気がしていた」
アドバルーン監視員、飛び立つ鳩、クマのぬいぐるみ。職場や家庭での労働の現実よりも、ゲームの中の方が生のひりつきを感じさせる世界。これらの感覚が、鬱屈を爆発させるかのように存分に書かれている。この小説を読みにくいと感じる人がいるかもしれない。それはこの作品の質感がそのまま、世の中の本当の生々しいものがリアルなのかバーチャルなのか、どこの世界にあるのか分からなくなり、濁った膜で隔てられたような現代の不透明な感覚と直接つながっているからだ。
鈴木涼美「悪い血」:妊娠を機に振り返る半生
鈴木涼美さん(43)の「悪い血」(文学界6月号)は、40歳を前に思いがけず妊娠した女性の物語。産むとも産まないとも決断できない中で、高校を中退して乱れた生活を送ってきた自身の半生や、早くに亡くなった同性の悪友のことなどを思い返していく。露悪的とも見える生々しい言葉と、心の動きを丁寧にたどる無垢な言葉が、ちぐはぐに物語に織り込まれていることが魅力だ。



