東京都立川市で江戸東京野菜の一つ「寺島ナス」を長年栽培してきた農業生産者、清水丈雄さん(80)は、「悪いものは出さない」という信念を貫いている。鶏卵ほどの大きさで収穫する小ぶりなナスで、深い紫色の照りと濃厚な味わいが特徴だが、収穫の時期や品質の見極めが難しく、大量流通には向かないとされる。
江戸時代から続く農家の歴史
清水さんは8代、あるいは9代続く農家に生まれた。正確な代数は分からないが、墓石には「文化」の文字が刻まれ、江戸時代からこの地で農業を営んできた歴史を今に伝えている。先祖は農業だけでなく鍛冶屋も営んでいたという。
中学校を卒業すると昼は畑で働き、夜は農業高校へ通った。しかし、野菜づくりを学んだのは学校ではなく、父親の背中だった。「言葉で教わるというより、体で覚えました」と語る。
寺島ナスとの出合いと試行錯誤
寺島ナスとの出合いは平成22年ごろ。JA東京みどりから二十数本の苗を譲り受けたのが始まりだった。「ナスなら何十年も作ってきた。同じようにできると思っていました」と振り返る。ところが、その考えはすぐに覆された。普通のナスよりも苗は繊細で、収穫の適期はわずかしかない。少し採り遅れるだけで照りが失われ、商品価値が落ちてしまう。「最初は失敗ばかりでした」と話す。
それでも栽培を続けたのは、その味に魅せられたからだった。「これは価値のある野菜だ」と確信し、試行錯誤を繰り返しながら栽培本数を増やしていった。
「悪いものは出さない」品質へのこだわり
清水さんが何度も口にした言葉がある。「悪いものは出さない」だ。寺島ナスは卵ほどの大きさで収穫する。畑では美しく見えても、家に持ち帰り、荷造りをしている間に照りを失うものもある。そうしたナスは、ためらわずに捨てる。「近所の人から『それでも欲しい』といわれても出しません。悪いものを出せば信用を失いますから」と語る。
清水さんにとって「照り」は単なる見た目ではない。紫色の艶は鮮度と品質を示す何よりの証しであり、その照りが失われた時点で商品ではなくなるという。だから収穫は朝5時から始め、暑くなる前の9時ごろには終える。堆肥を入れ、有機肥料を施し、枝葉を整えながら一本一本の状態を確かめる。農薬や化学肥料を抑え、その分だけ手間を惜しまない。「野菜は手をかければ応えてくれる。人間と同じですよ」と語る。
次世代へ受け継がれる農家の姿勢
市場の統廃合によって販路が変わると、自らスーパーへ直接納品する販売方法へ切り替えた。栽培技術だけでなく、経営の視点も求められるのが都市農業の現実だという。
現在は娘夫婦が中心となって農業を担う。寺島ナスの収穫や出荷の判断も任せられるようになり、「もう私より厳しいくらい」と目を細める。受け継がれたのは技術だけではない。「悪いものは出さない」という農家としての姿勢もまた、次の世代へ引き継がれていた。
自身は心臓や腰の手術を経験し、現在もリハビリを続けている。苗づくりはやめ、栽培規模も縮小した。それでも畑に立ち続ける理由は変わらない。「野菜を買ってくれる人がいる限り、いいものを作って出していくだけです」と語る。
都内では農地の減少や後継者不足が続き、江戸東京野菜を取り巻く環境は決して楽ではない。それでも清水さんは、目の前の一株一株に手をかけることをやめない。畑で見た寺島ナスの紫色の照りは、品質の証しであると同時に、江戸から受け継がれてきた技術と経験、そして「悪いものは出さない」という農家の矜持そのものがそこには息づいている。



