中村雅俊、故郷・女川への思いを語る 震災から15年、音楽で心の復興を支える決意
俳優で歌手の中村雅俊さん(75歳)は、宮城県沿岸部の港町・女川町で生まれ育った。15年前、東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた地域だ。中村さんは「じっとしてはいられない」と地元へ戻り、避難所でヒット曲を披露して住民を元気づけ、新しく開校した小学校の校歌を手がけた。支援活動の中で実感したのは、音楽の力だ。「これからも被災者の心の復興に貢献したい」。必要とされる限り、故郷とともに歩んでいくつもりだと語る。
震災直後の衝撃と支援活動
震災が起きた時、中村さんは東京の府中市で、タレントで俳優の三宅裕司さんたちと一緒にテレビドラマを撮影していた。電車の中のシーンを撮影中に、ものすごく大きく揺れた。震源地が女川の真横だったことを知り、「これは……」と直感したという。高校時代から地震があったら津波という教えを受けて育ったため、津波の可能性を感じたが、あれほどの規模は想像できなかったと振り返る。
ドラマの撮影が続いていたため、女川に帰ったのは4月に入ってから。同級生や後輩に連絡を取り、アドバイスをもらってレンタカーで向かった。食べ物や物資、義援金など、持っていけるものは全て持参した。観光物産施設「マリンパル女川」に掲げた「女川の町は俺たちが守る!!」の垂れ幕は、同級生たちと「みんなでなんとかしなきゃいけない」という意思表示のために制作。当初は「同級生一同」の名義を考えていたが、インパクトを求めて中村さんの名前になったという。
音楽の力と故郷への愛着
大学2年頃に作った曲「私の町」は、古里の景色を歌った稚拙な作品だと中村さんは語る。しかし、震災後に女川の避難所で歌った時、その歌が人の心を動かす様子を目の当たりにした。歌詞に出てくるのは今はない景色だが、「歌ってすげえ」と音楽の力を感じた瞬間だった。震災を機に、古里への思いが強くなり、支援活動に積極的に取り組むようになった。
女川の復興については、東京から情報に触れて喜んでいる。コンパクトシティーを目指したことや、大規模な防潮堤を造らなかったことも、結果的に正しかったのかなと感じている。一方で、宮城県内でも復興の進み具合には格差があり、15年近くたっても当時のまま残っている地域もある。仙台から女川まで車で移動する間にも、その格差を感じることがあるという。復興が大規模な都市や大きな被害があった地域から優先される傾向があり、格差が生まれるのはつらいと語る。
現在の活動と未来への展望
今の女川は中村さんが知っている女川ではなくなったが、それでも古里であることに変わりはない。湾があって、それを陸地から見た景色だけは生まれた時から変わらないと強調する。女川に帰るのは年に2、3回程度で、テレビドラマ「われら青春!」の生徒役やスタッフら十数人と大人の修学旅行を楽しんでいる。地元のレストランやホテルでお金を使うことも復興支援の形だと考える。
校歌を作った鳴瀬桜華小学校(東松島市)にも、大学の同級生などと3年に2回くらいのペースで訪問。子どもたちが歌うのを聴くと涙が出るほど感動するという。監督と主演を務めた映画「五十年目の俺たちの旅」が1月に公開され、「人生楽しく生きなきゃ」と「生きているって切ない」という二つのメッセージが込められている。人生に正面から向き合ってきた作品だと感じている。
被災地の心の復興に音楽という形で必要とされるなら参加したいと語る中村さん。ただし、年齢を考慮して、できれば早めに呼んでほしいと笑いながら付け加えた。今後も故郷とともに歩み続ける決意を新たにしている。
